世界の中での日本

日本の歴史は大きな節目や時代の変わり目ごとに常に諸外国からの強い圧力に対応しつつ自ら道を切り開いてきたという特色がある。大化の改新律令国家の形成、開国や明治維新をきっかけとする近代国家も成立などはいずれもその例である。

1127年の南宋の成立からほぼ30年後に日本では平氏政権が成立し、日宋貿易が活発になった。南宋では日本からもたらされる螺鈿や蒔絵、華麗な大和絵の描かれた扇や屏風が珍重され、火起こしの材料となる硫黄は必需品であった。日本に輸出される青磁、漢籍、香料の対価として入ってくる大量の日本の砂金は驚きを持って受け入れられた。一方で、南宋から日本にもたらされた宋銭は日本の貨幣経済を発展させた。すでに中世から日本は正式ではないにせよ宋を中心とする東アジア通商圏に組み入れられていた。

フビライモンゴル帝国を中国風の元と改称し中国南部の南宋を攻撃しようとした際に、南宋の東方海上にあて貿易を通じて南宋と結びついていた日本の存在がフビライの前には大きく浮かび上がっていた。そのため、南宋攻撃の戦略の一環として日本に元への朝貢や通商を要求し、日本を南宋から切り離そうとする政策が実行された。

蒙古以来も元との政治的軍事的緊張は続いたが、経済関係は一層深まった。元に続く明を中心とする国際秩序の再構築の呼びかけに足利義満が応えた背景には経済関係の深まりが背景にあった。

1543年のポルトガル人の種子島漂着を契機に始まった南蛮貿易も東アジア通商圏なしには成立しない。ポルトガル船はヨーロッパ産の鉄砲、火薬、毛織物、東南アジア産の香料、染料、中国産の生糸、絹織物などを日本にもたらし、この頃に日本で産出が急増していた銀を中国に運んだ。しかし、南蛮貿易の基本はポルトガル船による日本産の銀と中国産の生糸、絹織物を交換、売買するのが主体であり、それにヨーロッパ産、東南アジア産の貿易品が加わった中継貿易であった。

ユーラシア大陸を東西にまたぐ大経済圏を指向したモンゴルの大帝国は、そのなかに東アジア通商圏を包摂させた役割を担っていたと言える。

1604年の糸割符制度は糸割符仲間に一括購入する権利を与え、ポルトガル商人による中国産の生糸輸入の独占を打破しようとするものであった。一方で、江戸幕府朱印船貿易を積極的に推奨し、日本産の銀、銅、硫黄などを輸出し中国産の生糸、絹織物や南洋産の皮類、香料、薬種、砂糖を輸入した。朱印船はオランダ船、明船をしのぎ、ポルトガル船に匹敵するほど盛んな時期もあった。しかし、200年あまり外交制限状態を経て、日本の目の前の現れたのは産業革命を達成し地球全体に通商圏を包摂することを目指す強大な列強諸国であった。

法制の変化と社会(中世)

鎌倉幕府の成立に対応して朝廷は新たな対応に迫られた。それが建久の新制で、諸国の行政上での義務を明確にし荘園管理と国内の悪僧、神人の乱暴の取締はそのままに、鎌倉幕府武家として捉え諸国の守護権を委任した。朝廷内部の規律も定め、京都の支配制度を検非違使を中心に整えた。建久の新制はその後の公家社会の基本となった。

一方で鎌倉幕府も新たな法制を模索した。武士たちは自らを育んできた慣習や道徳を重んじたが、紛争を処理する規範としての道理と呼ばれた慣習や道徳には地域的差異があり、相互矛盾することもあった。そのため、武士の土地支配が進展するにつれ所領紛争が全国各地で頻発した。鎌倉幕府は成文法の定立を求められ、そこで武家政権の根本法典としての武家諸法度が作られ室町幕府を経て江戸幕府武家諸法度にまで影響を与えた。

戦国時代になると戦国大名のなかには戦いを勝ち抜き、領国経営を安定させるために分国法を定めるものも現れた。なかでも喧嘩両成敗法は慣習的に認められていた紛争可決手段としての私闘を禁止し、すべての紛争を大名の裁判に委ねさせることで領国の平和を実現しようとするものであった。

この姿勢は豊臣秀吉の惣無事令にも引き継がれ、これによって大名から百姓にいたる全ての階層での合戦、私闘が禁止され近世的な支配原理の一つを生み出した。

戦国大名の登場

応仁の乱に始まる戦乱の混乱のなかでそれぞれの地域に根をおろした実力のある支配者が台頭してきた。16世紀前半、近畿地方ではなおも室町幕府の主導権を巡って細川氏の内部の権力争いが続いていたが、他の地方では自らの力で領国を作り上げ独自の支配を行う地方権力が誕生した。

関東では享徳の乱以後、鎌倉公方が持氏の子の成氏の古河公方と義政の兄弟の政和の堀越公方に分裂し、関東管領上杉氏も山内と扇谷の両上杉家に分かれ争っていた。この混乱に乗じて15世紀末に京都から下ってきた北条早雲堀越公方を滅ぼし伊豆を奪うと相模に進出して小田原を本拠地とすると、その子の氏綱、孫の氏康の時には北条氏は関東の大半を支配する大名となった。

中部地方では16世紀半ばまでに越後の守護上杉氏の守護代であった長尾氏に景虎が出て関東管領上杉氏を継いで上杉謙信と名乗り、甲斐から信濃に領国を拡張してきた武田信玄と川名島でしばしば戦った。

中国地方では守護大名として権勢を誇っていた大内氏が16世紀半ばに重臣の陶晴賢に国を奪われ、さらに安芸の国人から起こった毛利元就がこれに代わり、山陰地方の尼子氏と激しく戦闘を繰り返した。

戦国大名の中には守護代や国人から身を起こしたものが少なくなく、戦国時代には守護職のような古い権威は通用しなくなり、戦国大名として権力を維持するためには激しい戦乱で領主支配が危機に晒された家臣や生活を脅かされた領国民の支持が必要であった。そこで、戦国大名には新しい軍事指導者、領国支配者としての実力が求められた。

戦国大名は新しく服属させた国人たちとともに各地で成長の著しかった地侍を家臣に組み入れ、これらの国人や地侍らの収入額を銭に換算して貫高という基準で統一的に把握し、その地位と収入を保障する代わりに彼らの貫高に見合った一定の軍役を負担させた。

大名は家臣団に組み入れられ多数の地侍を有力家臣に預ける形で組織化し、これにより鉄砲や長槍などの新しい武器を使った集団戦法が可能になった。

戦国大名は家臣団統制や領国支配のための政策を打ち出し、なかには領国支配のための基本法である分国法を制定するところもあったが、これらの法典の中には幕府法、守護法を継承しながら国人一揆の規約を吸収した法もあり中世法の集大成的な性格があった。また、喧嘩両成敗法などの戦国大名の新しい権力としての性格を持った法も作られた。

また、征服した新たな土地の検地を多く行い、農民の耕作する土地面積と年貢量などを検地帳に登録させ大名の農民に対する直接支配が強化された。検地には家臣の領主にその支配地の面積、収入額を自己申告させるものと、名主に耕作地の面積、収入額を自己申告させるものがあった。

朝鮮や明からの輸入品で木綿は兵衣や鉄砲の火縄に使用され需要が高まり、三河などの各地で木綿栽培が急速に普及した。そして、武器などの大量の物資の生産や調達のために戦国大名は有力な商工業者を取り立てて、領国内の商工業者を統制し鉱山の開発や大河川の治水、灌漑などの事業を行った。鉱山開発は精錬技術、採掘技術の革新をもたらし、特に金銀の生産を飛躍的に高めた。

城下町を中心として領国を一まとまりの経済圏とするために、領国内の宿駅や伝馬の交通制度が整えられ、関所の廃止や市場の開発などの商業取引の円滑化が進められた。城下には家臣の主な者が集められ、商工業者も集住して次第に政治、経済、文化の中心としての城下町が形成された。

また、農村手工業や商品経済の発達により農村の市場や町が飛躍的に増加した。大寺社以外の地方の中小寺院の門前町も繁栄した。特に浄土真宗の勢力の強い地域ではその寺院や道場を中心に寺内町が各地に建設されそこに門徒の商工業者たちが集住した。

これらの市場や町は自由な商業取引を原則とし、販売座席(市座)や市場税などを設けない楽市として存在するものが多かった。戦国大名は楽市令などを出してこれらの楽市を保護し商品流通を盛んにさせ、自ら楽市を新設したりした。

遠隔地商業も盛んになり、港町や宿場町が繁栄した。これらの都市の中には富裕な商工業者たちが自治組織をつくり市政を運営したり、平和で自由な都市を作り上げるものもあった。日明貿易の根拠地としての堺や博多、摂津の平野、伊勢の桑名や大湊などがあり、特に堺は36人の会合衆、博多は12人の年行事と呼ばれる豪商の合議によって市政が運営され、自由都市としての性格をもっていた。

京都のような古い政治都市にも富裕な商工業者である町衆を中心とした都市民の自治的団体である町が生まれ、惣村と同じようにそれぞれ独自の町法を定め住民の営業活動を守った。さらに、町が集まって町組という組織が作られ、町や町組は町衆のなかから選ばれた月行事の手によって自治的に運営された。

新仏教の発展

天台、真言などの旧仏教は朝廷、幕府の没落や荘園の崩壊によって次第に勢力を衰えさせ、これに対して鎌倉仏教の各宗派は武士、農民、商工業者などの信頼を得て、都市や農村に広まった。

禅宗五山派はその保護者であった幕府の衰退により衰えた。これに対し、より自由な活動を求めて地方布教を志した禅宗諸派は地方武士、民衆の支持を受けて各地に広がった。

東国を基盤にして発展した日蓮宗はやがて京都に進出し、特に6代将軍義教のころの日親の布教は戦闘的で他宗と激しい論戦を行ったため、しばしば迫害された。京都で財力を蓄えた商工業者には日蓮宗の信者が多く、彼らは1532年に法華一揆を結び一向一揆と対抗して町政を自治的に運営した。しかし、1536年に法華一揆延暦寺と衝突し焼打ちを受け、一時京都を追われた。(天文法華の乱)

浄土真宗(一向宗)は農民のほかにも、各地を移動して生活する商人や交通、手工業者などにも受け入れられて広まった。特に応仁の乱のころ、本願寺蓮如阿弥陀仏の救いを信じれば誰でも極楽往生ができることを平易な文章で説き、講を組織して惣村に広めた。蓮如を中心とする精力的な布教活動によって本願寺の勢力は北陸、東海、近畿地方に広まり、各地域ごとに強く結束し強大なものとなった。そのため、農村の支配を強めつつあった大名権力と門徒集団が衝突し各地で一向一揆が起こった。

室町幕府の衰退

義満のあとを継いだ足利義持(1386-1428)の時代は将軍と有力守護の勢力が均衡を保たれ比較的安定していた。しかし、6代将軍足利義教(1394-1441)は将軍権力の強化を狙い専制的な政治を行った。1438年に関東に討伐軍を送り翌年に幕府に反抗的な鎌倉公方足利持氏を滅ぼした。

義教はその後も有力守護を弾圧したため、1441年に有力守護の赤松満祐が義教を殺害した。同じ年に赤松氏は討伐されたが、これ以降将軍の権威は揺らいでいった。

将軍権力の弱体化により有力守護と将軍家の間で内紛が起こった。

畠山、斯波の管領家の家督争い、義政(8代将軍 1436-90)の弟の義視と義政の子をおす日野富子との家督争いが起こった。また、幕府の実権を握ろうと細川勝元山名持豊家督争いに介入し対立が激化した。そして、1467年に応仁の乱が発生した。

守護大名は細川方(東軍)と山名方(西軍)にわかれ京都で戦った。その結果、京都は荒廃した。応仁の乱は1477年に両軍の和議で終戦をむかえ守護大名も領国に下ったが、その後も地域的争いとして続けられ全国に広がっていった。

これにより有力守護が在京し幕政を支える幕府の仕組みは崩壊し、荘園制の解体も進んだ。

守護大名が京都で戦いを続ける一方で、その領国では在国して戦いを主導していた守護代や有力国人が力をつけ、領国支配の実権は次第に彼らに移っていった。また、地方の国人たちも自分たちの権益を守ろうと国人一揆を結成した。

1485年には南山城地方で畠山氏の軍を国外に退去させた山城国一揆は住民の支持を受け、8年に渡り一揆の自治支配を実現させた。

1488年の加賀の一向一揆本願寺蓮如の布教によって近畿、東海、北陸に広がった浄土真宗本願寺派の勢力を背景に、加賀の門徒が国人と結んで守護富樫政親を倒したものであった。一揆の実質的な支配が1世紀にわたって続けられた。

鎌倉後期には近畿地方やその周辺部では荘園や公領の内部に村が自然発生的に生まれ、南北朝の動乱の中でしだいに全国に広がっていった。農民が自立的、自治的な村を惣と呼ぶ。惣村は古くからある有力農民の名主層に加えて小農民も構成員とし、村の神社の祭礼、農業の共同作業、自衛などを通して村民の結合を強めていった。

惣村は寄合という村民の会議の決定に従い、おとな、沙汰人などと呼ばれる村の指導者によって運営された。また、村民が守るべき規約である惣掟を定め、村内の秩序維持のために村民自ら警察権を行使することもあった。

惣村は農業作業に必要な山や野原などの共同利用地を確保するとともに、灌漑用水の管理も行うようになった。また、領主へ収める年貢を惣村がひとまとめに請け負う地下請もしだいに広がった。

強い連帯意識で結ばれた惣村の農民は不法を働く荘官の免職や水害、干害の際の年貢の減免を求め一揆を結び、荘園領主のもとに団体で押しかけたり、全員が耕作を放棄し他領や山林に逃げ込んだりする実力行使を行った。また、惣村の有力者のなかには守護などと主従関係を結んで武士化するものも多く現れ(地侍)、荘園領主や地頭などの領主支配が次第に困難になった。

これらの惣村は時として荘園、郷の枠を超えて領主が異なる周辺の惣村と連合することもあり、このように連合した農民勢力が大きな勢力となって中央の政界に衝撃を与えたのが1428年の正長の徳政一揆であった。惣村の結合をもとにした土一揆は徳政要求をし、京都の土倉、酒屋を襲って質物や売買、貸借証文をうばった。

この頃には農村にも土倉などの高利貸し資本が浸透し、この徳政一揆はたちまち近畿地方やその周辺に広がり各地で実力による債務破棄、売却地の取り戻しが展開された。1429年の播磨の土一揆は守護赤松氏の家臣を国外へ追放するという政治的要求も掲げていた。

1441年に数万人の土一揆が京都を占拠し、幕府はついに土一揆の要求を受け入れて徳政令を発布した。(嘉吉の徳政一揆)中世の社会では支配者の交代によって所有関係や貸借関係などを改められるという社会観念が存在し、その後もしばしば土一揆は徳政のスローガンを掲げて各地で蜂起し幕府も徳政令を乱発した。それらの徳政令は債権額、債務額の10分の1や5分の1の手数料を幕府に納入することを条件に債権の保護や債務の破棄を認める分一徳政令も多かった。

 この時期の農業の特色は民衆の生活と結びついて土地の生産性を向上させる集約化、多角化がすすんだことにある。水車などの灌漑や排水施設の整備、改善され、畿内では二毛作に加え三毛作も行われた。また、稲の品種改良も進み早稲、中稲、晩稲の作付も普及した。

肥料にも刈敷、草木灰などとともに下肥が使われるようになり、地味の向上と収穫の安定化が進んだ。また、手工業の原料としての苧、桑、楮、漆、藍、茶などの栽培も盛んになった。農村加工業の発達によりこれらの商品が流通するようになった。

農業の発達により農民は豊かになり、物資の需要が高まり農村にも商品経済が浸透した。

この農民の需要に支えられ地方の産業が盛んになり特産品が生産されるようになった。

製塩のための塩田も自然浜の他に、堤で囲った砂浜に潮の干満を利用し海水を導入する古式入浜も作られるようになった。

農業や手工業の発達により地方の市場もその日数が増えていき月に6回開く六斎市が一般的となった。また、連雀商人や振売と呼ばれる行商人の数も増え、京都の大原女、桂女などの女性の活躍が目立った。

京都などの大都市では見世棚を構えた常設の小売店が一般的になり、京都の米場、淀の魚市などのように特定の商品のみを扱う市場も生まれた。

手工業や商人の座も種類も数も著しく増加し、なかには大寺社や天皇家から与えられた神人、供御人の称号を根拠に、関銭の免除や広範囲の独占的販売権を認められ全国的に活動する座もあった。蔵人所を本所とする灯炉供御人は関銭を免除され全国的な商売を展開した。また、大山崎の油神人は石清水八幡宮を本所とし、畿内、美濃、尾張、阿波などで油の販売と原料である荏胡麻購入の独占権を持っていた。しかし、15世紀以降では座に加わらない新興商人が出現し、地方には本所を持たない新しい性格の座(仲間)も増えていった。

商品経済が盛んになると貨幣の流通も著しく増え、農民の年貢、公事、夫役も貨幣で納入されることが多くなった。また、遠隔地取引の拡大とともに為替の利用に盛んに行われた。

貨幣は従来の宋銭とともに、新たに流入した明銭が使用されたが需要の増大とともに粗悪な私鋳銭も流通するようになり、取引にあたっては悪銭は嫌われ良質の貨幣を選ぶ撰銭が行われ、円滑な流通が阻害された。そのため、幕府、戦国大名は悪銭と良銭の混合比率を決め、一定の悪銭の流通を禁止する代わりにそれ以外の貨幣の流通を強制する撰銭令をしばしば発布した。

貨幣経済の発達は金融業者の活動を促し、酒屋などの富裕な商工業者は土倉と呼ばれる高利貸業を兼ねるものが多く、幕府はこれらの土倉、酒屋を保護、統制するとともに営業税を徴収した。

地方産業が盛んになると遠隔地取引も活発になり海、川、陸の交通路が発達し、廻船の往来も頻繁になり交通の要所には問屋が置かれ多くの地方都市が繁栄した。また、多量の物資が運ばれる京都への輸送路では馬借、車借と呼ばれる運送業者が活躍した。交通、運輸の増加に着目した幕府、寺社、公家などは水陸交通の要所に次々と関所を設け、関銭、津料を徴収し交通の大きな障害となった。

室町時代(初期)

室町幕府

南北朝の動乱も三代将軍義満の時代には落ち着きをみせ、1392年に南朝側と交渉し南北朝の合体が実現した。南朝側の後亀山天皇皇位を放棄し天皇後小松天皇の一人となった。

義満は商工業の中心地の京都での市政権、諸国への段銭徴収権などの権限を朝廷から幕府の管轄下に置き統一政権を確立させた。1378年に京都の室町に邸宅を建て義満はそこで政治をおこなった。やがて、将軍を辞して太政大臣に上り、出家後も実権をふるった。

義満は動乱のなかで強大化した守護の統制を図り、90年から99年にかけて土岐氏、山名氏、大内氏などの外様の有力守護を攻め滅ぼした。

幕府の機構も整備され、管領は将軍の補佐を行う中心的な職で侍所、政所などの中央諸機関を統轄し、諸国の守護に将軍の命令を伝達した。管領には足利一門の細川、斯波、山名、京極の4氏(四職)から任命され、有力守護は在京して重要政務を決定して幕政を運営した。一般の守護も領国は守護代に統治させ、自身は在京して幕府に出仕することが原則となった。

幕府は将軍権力を支えるための軍事力の育成に努め、古くからの足利家の家臣、守護の一族、有力な地方武士を集めて奉公衆と呼ばれる幕府の直轄軍を編成した。奉公衆はふだんは京都で将軍の護衛にあたり、諸国に散在する幕府の直轄領である御料所の管理もゆだねられ、守護の動向を牽制する役割を担った。

幕府の財政は御料所からの収入、守護の分担金、地頭、御家人への賦課金などでまかなわれた。また、京都の高利貸しを営む土倉や酒屋に土倉役、酒屋役を課し、交通の要所に関所を設けて関銭、津料を徴収した。幕府の保護下で金融活動を行っていた僧侶にも課税した。また、日明貿易の利益も幕府の財源となっていた。内裏の造営などの国家行事では守護から段銭や棟別銭を賦課することもあった。

地方機関としては鎌倉府や九州探題があった。尊氏は関東を重視し、その子の基氏に鎌倉公方として鎌倉府を開かせた。以後、鎌倉公方は基氏の子孫が世襲し、補佐の関東管領は上杉氏が世襲した。鎌倉府は関東8か国と伊豆、甲斐、のちには陸奥、出羽を支配し、京都の幕府と同等の権限を持つようになりしばしば衝突するようになった。

 

 

東アジアとの交易

 14世紀後半から15世紀にかけて、対馬壱岐肥前松浦地方の住民を中心とする海賊集団が朝鮮半島や中国大陸沿岸を襲い倭寇と恐れられていた。倭寇朝鮮半島沿岸の人々を捕虜にしたり食料を奪うなどした。

倭寇に悩まされた高麗は日本に使者を送って倭寇の禁止を求めたが内乱のさなかで成功しなかった。

中国では1368年に元の支配を排して漢民族の王朝の明を建国した。明は中国を中心とする伝統的な国際秩序の回復に努め、近隣の諸国に通交を求めた。

蒙古襲来後も元と日本の間で正式な外交関係はなかったが、義満は1401年に明に使者を派遣して国交を開いた。しかし、明を中心とする国際秩序のもとに行われた日明貿易は、国王が明の皇帝へ朝貢しその返礼として品物を受け取る朝貢貿易の形式を取らなければならなかった。また、遣明船は明から交付される勘合と呼ばれる証票を持参することが義務付けられた。

日明貿易は四代将軍義持が朝貢形式の貿易に反対し一時中断されたが、六代将軍義政の時に再開された。朝貢形式の貿易は滞在費、運搬費などはすべて明が負担したため、日本の利益は大きかった。また、大量にもたらされた銅銭は日本の貨幣流通に大きな影響を与ええた。

15世紀後半には幕府の衰退とともに貿易の実権はしだいに堺商人と結んだ細川氏や博多商人と結んだ大内氏の手に移っていった。細川氏と大内氏は激しく争い、1523年には寧波で衝突が起こり、この戦いに勝った大内氏が貿易を独占したが16世紀半ばに大内氏は滅亡し勘合貿易も断絶した。これとともに倭寇の活動が再び活発となり豊臣秀吉が海賊取締令を出すまでその活動は続いた。

朝鮮半島では1392年に倭寇を撃退して名声を立てた李成桂高麗を倒し朝鮮を建てた。朝鮮も通交と倭寇の禁止を日本に求め義満もこれに応じて国交が開かれた。日朝貿易は幕府だけでなく守護、国人、商人なども参加して盛んに行われたため、朝鮮側は対馬の宗氏を通して通交についての制度を定め貿易を統制した。

宗氏の当主の交代で倭寇が活発になると1419年に朝鮮軍は倭寇の本拠地と考えていた対馬を襲撃する応永の外寇によって、日朝貿易は一時中断したが、16世紀まで活発に行われた。朝鮮からの主な輸入品は織物類で、特に木綿は大量に輸入され衣料などの生活様式に影響を与えた。

しかし、朝鮮の三浦に住む日本人が暴動を起こし鎮圧された三浦の乱(1501年)以来、次第に貿易は衰えていった。

沖縄では北山、中山、南山の3地方勢力が成立し争っていたが、1429年に中山王の尚巴志が三山を統一し琉球王国をつくった。琉球は明や日本と国交を結び海外貿易を盛んに行った。琉球船は南方のジャワ島、スマトラ島インドネシア島などまでに行動範囲を広げ、東南アジア諸国間の中継貿易に活躍した。そのため、王国の都の首里の外港である那覇は重要な国際港となり、琉球は繁栄した。

14世紀には畿内津軽の十三湊とを結ぶ日本海交易も盛んに行われ、サケ、コンブなどの北海の産物が多く京都にもたらされた。やがて、蝦夷が島と呼ばれた北海道の南部に本州から人が移り、各地の海岸に居住地をつくった。彼らは和人と呼ばれ、津軽の豪族安藤氏の支配下に入り勢力を拡大した。

古くから北海道に住み、漁労や狩猟を生業とするアイヌは和人と交易を行った。和人の進出は次第にアイヌを圧迫し、1457年には大首長コシャマインを中心に蜂起し一時和人の居住地のほとんどを攻め落としたが、まもなく上ノ国の領主蠣崎氏に鎮められた。その後も蠣崎氏は道南地域の和人居住地の支配者に成長し、江戸時代には松前氏と名乗って蝦夷地を支配した。

南北朝の動乱

 後嵯峨上皇が亡くなると皇室は後深草上皇の流れをくむ持明院統亀山天皇の流れをくむ大覚寺統に分かれ、皇位の継承や院政を行う権利、皇室領荘園の相続などを巡って争い、ともに幕府に働きかけて有利な立場を得ようとした。幕府はたびたび調停を行い、両統が交代で皇位につく両統迭立が採用された。

 このなかで即位した大覚寺統後醍醐天皇はまもなく親政をはじめ、皇位の安定を図るために積極的に天皇の権限強化を進めた。一方、幕府の執権北条高時のもとで内管領長崎高資が権威をふるい、得宗専制政治に対する不満が高まっていた。両統迭立を支持する幕府に不満を抱いていた後醍醐天皇は情勢をみて、討幕の計画を進めたが1324年に幕府側にもれて失敗した。1331年にも挙兵を企てるが失敗し、持明院統光厳天皇が幕府に押されて即位すると翌年に後醍醐天皇隠岐に流された。

 しかし、後醍醐天皇の皇子護良親王楠木正成らは反幕勢力を結集し蜂起し幕府軍と粘り強く戦った。やがて、隠岐を脱出した後醍醐天皇は討幕にむけて呼びかけを続け、幕府軍の指揮官として畿内に派遣された有力御家人の足利高氏も幕府に背いて六波羅探題を攻め落とした。関東で挙兵した新田義貞も鎌倉を攻めて得宗の高塒を滅ぼし1333年に幕府は滅亡した。

 後醍醐天皇は京都に戻ると光厳天皇を廃し、新しい政治を始めた。1334年には年号を建武と改めた。後醍醐天皇は幕府も院政も摂政、関白も否定し、天皇の権力集中をはかり、すべての土地所有権の確認には天皇の綸旨が必要とする法令を打ち出したが。

しかし、現実には中央には記録所や幕府の引付を引き継いだ雑訴決断所が設置された。また、諸国には国司と守護が併置された。東北、関東にはそれぞれ陸奥将軍府鎌倉将軍府がおかれ皇子が派遣されたが、実態は鎌倉小幕府といえるほど旧幕府系の武士が重用された。

幕府再建を目指していた足利尊氏は、1335年に北条高時の子の時行が反乱を起こし鎌倉を占領したときに、討伐のため関東に下り新政権に反旗を翻した。

1336年に京都を制圧した尊氏は持明院統光明天皇を立て、幕府を開くために当面の政治指針である建武式目を発表した。これに対して、後醍醐天皇は京都から吉野の山中にこもって正当の皇位にあることを主張した。

南北朝の初期には楠木正成新田義貞らが戦死し南朝側の形勢は不利になったが、北畠親房らが中心となって東北、関東、九州に拠点を築いて抗戦を続けた。

北朝側では1338年に尊氏が征夷大将軍に任命され、弟の直儀と政務を分担した。しかし、鎌倉幕府以来の法秩序を重視する直儀を支持する勢力と尊氏の執事高師直を中心とする武力による所領拡大を願う新興勢力との対立が激しくなり、相続問題もからんで1350年には両派が武力対決にまで発展した。(観応の擾乱)抗争は直儀の死後も続き、尊氏派、旧直儀派、南朝勢力が30年にわたって離合集散を繰り返した。

抗争が長引いた背景として、惣領制の解体が考えられる。この頃の武家社会では本家と分家が独立し、それぞれの家の中で嫡子が全ての所領を相続し庶子は嫡子に従属するという単独相続が一般的になっていた。この変化は武士団のなかで分裂を生み、一方が北朝につけば反対勢力は南朝につくなどして動乱は拡大していった。また、地縁的結合を主としていた武士団が地縁的結合を重視するようになっていった。

60年ちかくに渡った動乱のなかで地方武士の力が増大し、守護が軍事上重要な役割を担うようになった。幕府は地方武士を動員するために守護の権限を拡大し、鎌倉幕府以来の守護の職権に加え苅田狼藉を取り締まる権限や幕府の裁判を強制執行する権限が与えられた。また、1352年に出された半済令は当初は3国に限られていたがやがてやがて全国に拡大され、軍費調達のために守護が荘園や公領の年貢の半分を徴発する権限が認められた。

守護はこれらの権限を利用して国内の荘園や公領を侵略し、新たに武士に分け与えた。yがて、国衙の機能も吸収し国全体に支配権を確立させる守護も現れ、任国も世襲されるようになった。

しかし、地頭などの国人と呼ばれた地方在住の武士は、なお自立の気質が強く守護が彼らを家臣化していくのは困難であった。守護の力の弱い地域では国人たちは自主的に相互間の紛争を解決したり、力をつけてきた農民を支配するために自ら契約を結び地域的な一揆を結成したりした。