世界の中での日本

日本の歴史は大きな節目や時代の変わり目ごとに常に諸外国からの強い圧力に対応しつつ自ら道を切り開いてきたという特色がある。大化の改新や律令国家の形成、開国や明治維新をきっかけとする近代国家も成立などはいずれもその例である。 1127年の南宋の成立…

法制の変化と社会(中世)

鎌倉幕府の成立に対応して朝廷は新たな対応に迫られた。それが建久の新制で、諸国の行政上での義務を明確にし荘園管理と国内の悪僧、神人の乱暴の取締はそのままに、鎌倉幕府を武家として捉え諸国の守護権を委任した。朝廷内部の規律も定め、京都の支配制度…

戦国大名の登場

応仁の乱に始まる戦乱の混乱のなかでそれぞれの地域に根をおろした実力のある支配者が台頭してきた。16世紀前半、近畿地方ではなおも室町幕府の主導権を巡って細川氏の内部の権力争いが続いていたが、他の地方では自らの力で領国を作り上げ独自の支配を行う…

新仏教の発展

天台、真言などの旧仏教は朝廷、幕府の没落や荘園の崩壊によって次第に勢力を衰えさせ、これに対して鎌倉仏教の各宗派は武士、農民、商工業者などの信頼を得て、都市や農村に広まった。 禅宗の五山派はその保護者であった幕府の衰退により衰えた。これに対し…

室町幕府の衰退

義満のあとを継いだ足利義持(1386-1428)の時代は将軍と有力守護の勢力が均衡を保たれ比較的安定していた。しかし、6代将軍足利義教(1394-1441)は将軍権力の強化を狙い専制的な政治を行った。1438年に関東に討伐軍を送り翌年に幕府に反抗的な鎌倉公方足…

室町時代(初期)

室町幕府 南北朝の動乱も三代将軍義満の時代には落ち着きをみせ、1392年に南朝側と交渉し南北朝の合体が実現した。南朝側の後亀山天皇は皇位を放棄し天皇は後小松天皇の一人となった。 義満は商工業の中心地の京都での市政権、諸国への段銭徴収権などの権限…

南北朝の動乱

後嵯峨上皇が亡くなると皇室は後深草上皇の流れをくむ持明院統と亀山天皇の流れをくむ大覚寺統に分かれ、皇位の継承や院政を行う権利、皇室領荘園の相続などを巡って争い、ともに幕府に働きかけて有利な立場を得ようとした。幕府はたびたび調停を行い、両統…

鎌倉後期の社会変動

蒙古襲来前後から農業の発展がみられ、畿内や西日本一帯では麦を裏作する二毛作が普及し、肥料には山野の草や木あ使われ、鉄製の農具や牛馬を利用した農耕も広がった。また、大唐米も輸入され、肥料には草を刈って田に敷きこむ刈敷や草木を焼いて灰にしたも…

蒙古襲来

鎌倉幕府では日宋間で正式な国交は行われなかった。しかし、平氏政権下での積極的な海外通交の後、私的な貿易や僧侶、商人の往来などが行われ日本は宋を中心とする東アジア通商圏に組み込まれた。 13世紀初め、モンゴル高原にチンギスハーンがモンゴル民族を…

武士の社会

このころまでの武士は開発領主の系譜を引き先祖以来の土地に住み着いて所領を拡大してきた。彼らは河川の近くの微高地を選んで館を構え、周囲には堀、溝、塀をめぐらした。武芸の練習場やあ防御施設であると同時に農業営業の中核でもあった。館の周辺部には…

鎌倉時代(中期)

承久の乱 京都の朝廷では幕府の成立と勢力の拡大に直面し、これまでの朝廷の政治の立て直しが行われ、その中心となったのが後鳥羽上皇であった。上皇は分散していた広大な皇室領の荘園を手中に収め、新たに西面の武士の軍事力の強化を図った。そのなかで1219…

鎌倉幕府の成立

反平氏の諸勢力のうち東国の武士団は武家の棟梁で源氏の嫡流である頼朝もとに集結し最も有力な勢力となった。頼朝は挙兵後まもなく、相模の鎌倉を根拠地として広く主従関係の確立に努め、関東の荘園、公領を支配して御家人の所領支配を保障した。1183年の平…

平氏政権

平治の乱後、清盛は後白河上皇を武力で支えて昇進し、蓮華王院の造営などの奉仕を通して1167年に太政大臣となった。その子の重盛らも高位について勢威をほこった。清盛は各地の武士を荘園や公領の現地支配者である地頭に任命し、畿内から瀬戸内海をへて九州…

保元・平治の乱

武家の棟梁としての源氏が東国で勢力を伸ばすと、東国武士団の中には源義家に土地を寄進して保護を求めるものが増え、朝廷はあわてて寄進を禁止した。義家の後、一族の内紛 により勢力が少し衰えると、桓武平氏のなかでも伊勢、伊賀を地盤とする伊勢平治は院…

平安後期の政治

院政の開始 頼道に子が出来なかったため、摂政、関白を外戚としない後三条天皇が即位し、大江匡房らなどの学識に優れた人材を登用し国政の改革に取り組んだ。特に、天皇は荘園の増加が公領を圧迫しているとして1069年に延久の荘園整理令を出した。これにより…

平安中期の政治

藤原家の進出 9世紀初めに桓武天皇(781-806)、嵯峨天皇(809-823)が貴族たちを抑え強い権力を握ったが、この間に藤原氏の特に北家が天皇家と結びつきを強め、勢力を伸ばした。北家の藤原冬嗣は嵯峨天皇の信任を得て蔵人頭になり、その子の藤原良房が842…

法制の変化と社会

中国は秦の時代から刑法にあたる律が編纂されているのに対して、日本では7世紀末から天武、持統朝に飛鳥浄御原令が編纂され、行政法としての令が優先された。ヤマト政権以来の氏族制的な原理が在地社会で生き続けていた当時としては、統治技術の先取りが優先…

平安初期の時代

平安宮廷の形成 光仁天皇(770-781)は道鏡の仏教政治による混乱から財政の再建を目指し、行財政の簡素化や公民の負担軽減などの政策を行った。その後、桓武天皇(781-806)が即位。 仏教政治の弊害を廃し天皇権力強化のため784年に平城京から長岡京に遷都…

奈良時代の政治

平城京の時代 710年、元明天皇が藤原京から平城京に遷都。朱雀大路で左京と右京に分かれ、中央北部に平城宮が位置した。平城宮には内裏、大極殿、朝堂院、二官と八省が置かれた。 左京、右京には官営の市が開かれ、市司が監督した。市では地方からの産物や布…

律令制の確立

朝鮮半島で新羅が唐と結んで660年に百済を、668年に高句麗を滅ぼした。都は難波から飛鳥に戻り、斉明天皇の下で百済復興のために大軍を送るが663年の白村江の戦いで唐・新羅の連合軍に大敗した。676年に新羅が半島の支配権を確立させると、日本の防衛政策が…

飛鳥の朝廷

6世紀の朝鮮半島 高句麗の圧力を受けた百済、新羅が南下、伽耶諸国は562年までに百済、新羅の支配下に入った。その結果、伽耶諸国と関係のあったヤマト政権の朝鮮半島での勢力は後退、政治を主導していた大伴氏は失脚した。この朝鮮半島での政策の違いを巡り…

飛鳥以前の政治機構

ヤマト政権での政治機構 5世紀後半から6世紀にかけて各地の地方豪族たちを服属させた大王を中心としたヤマト政権が成立すると関東から九州中部にかけて豪族を中心の支配体制を整えられた。 豪族たちは血縁などを基にした氏(うじ)という組織を編成、氏単位…