2016-02-24から1日間の記事一覧

鎌倉幕府の成立

反平氏の諸勢力のうち東国の武士団は武家の棟梁で源氏の嫡流である頼朝もとに集結し最も有力な勢力となった。頼朝は挙兵後まもなく、相模の鎌倉を根拠地として広く主従関係の確立に努め、関東の荘園、公領を支配して御家人の所領支配を保障した。1183年の平…

平氏政権

平治の乱後、清盛は後白河上皇を武力で支えて昇進し、蓮華王院の造営などの奉仕を通して1167年に太政大臣となった。その子の重盛らも高位について勢威をほこった。清盛は各地の武士を荘園や公領の現地支配者である地頭に任命し、畿内から瀬戸内海をへて九州…

保元・平治の乱

武家の棟梁としての源氏が東国で勢力を伸ばすと、東国武士団の中には源義家に土地を寄進して保護を求めるものが増え、朝廷はあわてて寄進を禁止した。義家の後、一族の内紛 により勢力が少し衰えると、桓武平氏のなかでも伊勢、伊賀を地盤とする伊勢平治は院…

平安後期の政治

院政の開始 頼道に子が出来なかったため、摂政、関白を外戚としない後三条天皇が即位し、大江匡房らなどの学識に優れた人材を登用し国政の改革に取り組んだ。特に、天皇は荘園の増加が公領を圧迫しているとして1069年に延久の荘園整理令を出した。これにより…

平安中期の政治

藤原家の進出 9世紀初めに桓武天皇(781-806)、嵯峨天皇(809-823)が貴族たちを抑え強い権力を握ったが、この間に藤原氏の特に北家が天皇家と結びつきを強め、勢力を伸ばした。北家の藤原冬嗣は嵯峨天皇の信任を得て蔵人頭になり、その子の藤原良房が842…

法制の変化と社会

中国は秦の時代から刑法にあたる律が編纂されているのに対して、日本では7世紀末から天武、持統朝に飛鳥浄御原令が編纂され、行政法としての令が優先された。ヤマト政権以来の氏族制的な原理が在地社会で生き続けていた当時としては、統治技術の先取りが優先…

平安初期の時代

平安宮廷の形成 光仁天皇(770-781)は道鏡の仏教政治による混乱から財政の再建を目指し、行財政の簡素化や公民の負担軽減などの政策を行った。その後、桓武天皇(781-806)が即位。 仏教政治の弊害を廃し天皇権力強化のため784年に平城京から長岡京に遷都…

奈良時代の政治

平城京の時代 710年、元明天皇が藤原京から平城京に遷都。朱雀大路で左京と右京に分かれ、中央北部に平城宮が位置した。平城宮には内裏、大極殿、朝堂院、二官と八省が置かれた。 左京、右京には官営の市が開かれ、市司が監督した。市では地方からの産物や布…

律令制の確立

朝鮮半島で新羅が唐と結んで660年に百済を、668年に高句麗を滅ぼした。都は難波から飛鳥に戻り、斉明天皇の下で百済復興のために大軍を送るが663年の白村江の戦いで唐・新羅の連合軍に大敗した。676年に新羅が半島の支配権を確立させると、日本の防衛政策が…

飛鳥の朝廷

6世紀の朝鮮半島 高句麗の圧力を受けた百済、新羅が南下、伽耶諸国は562年までに百済、新羅の支配下に入った。その結果、伽耶諸国と関係のあったヤマト政権の朝鮮半島での勢力は後退、政治を主導していた大伴氏は失脚した。この朝鮮半島での政策の違いを巡り…

飛鳥以前の政治機構

ヤマト政権での政治機構 5世紀後半から6世紀にかけて各地の地方豪族たちを服属させた大王を中心としたヤマト政権が成立すると関東から九州中部にかけて豪族を中心の支配体制を整えられた。 豪族たちは血縁などを基にした氏(うじ)という組織を編成、氏単位…