飛鳥の朝廷

6世紀の朝鮮半島

高句麗の圧力を受けた百済新羅が南下、伽耶諸国は562年までに百済新羅の支配下に入った。その結果、伽耶諸国と関係のあったヤマト政権の朝鮮半島での勢力は後退、政治を主導していた大伴氏は失脚した。この朝鮮半島での政策の違いを巡り、物部氏蘇我氏が対立すると蘇我馬子物部守屋で戦いとなり、587年に蘇我馬子物部守屋を滅ぼした。

蘇我馬子は、伴造に編成されていた渡来人と協力して財政権を握った。また、政治機構の整備、仏教の受容を進めた。

589年に中国で隋が成立。隋は高句麗に進出を始める。

592年、蘇我馬子崇峻天皇を暗殺、推古天皇が即位すると、聖徳太子らと協力して国家組織を形成した。

603年 官位一二階

604年 憲法一七条

氏族単位の政権組織を改めて、豪族を国家の官僚として編成し直し、仏教を新しい政治理念として重んじた。中国との外交を再開し607年に遣隋使を派遣した。中国に臣属しない対等な立場を主張し、皇帝から無礼とされた。

618年に隋が滅び、唐が成立すると遣唐使を派遣。中央集権国家の形成が課題となった。この頃から、飛鳥の地に多くの王宮がたてられ、王権の諸施設が整備されはじめた。

7世紀半ば、隋が高句麗に侵攻すると中央集権の確立と国内統一の必要に迫られ、643年に蘇我入鹿が山背大兄王子を滅ぼしたが、645年に中大兄皇子蘇我入鹿蝦夷を滅ぼした。王族中心の政権を目指し、王族出身の孝徳天皇が即位、中大兄皇子は皇太子、阿倍内麻呂蘇我倉山田石川麻呂は左、右大臣、中臣鎌足は内臣とする政権が成立。飛鳥から難波に移って政治改革を進めた。

646年の公地公民の制などの、全国的な人民、田地の調査、統一的な税制の施行が目指された。地方行政組織の評(こおり)が設置され、中央の管制が整備されていった。そのなかで中大兄皇子を中心に権力が集中していった。

大王候補だった古人大兄王や蘇我倉山田石川麻呂が滅ぼされた。