律令制の確立

朝鮮半島新羅が唐と結んで660年に百済を、668年に高句麗を滅ぼした。都は難波から飛鳥に戻り、斉明天皇の下で百済復興のために大軍を送るが663年の白村江の戦いで唐・新羅の連合軍に大敗した。676年に新羅が半島の支配権を確立させると、日本の防衛政策が進められ、百済の亡命貴族を中心に大宰府に城が築かれた。また、対馬には朝鮮式山城が築かれた。

664年に氏上が定められ、豪族層が編成された。

667年、中大兄皇子は都を近江に移し、668年に天智天皇に即位。670年に庚午年籍を作成された。

672年、天智天皇皇位継承をめぐり壬申の乱がおこり、大海人皇子が東国の軍事動員に成功し、近江朝廷を倒した。673年に天武天皇に即位。都を飛鳥とし、近江朝廷側の有力豪族は没落し、天武天皇を中心とした中央集権的国家が形成されていった。このころから、大王から天王という称号が使われるようになる。

天武天皇は675年、豪族領民をやめ官僚制の形成を進めた。684年、八色の姓を定め豪族を天皇中心の身分秩序に編成した。

藤原京の造営を始めるが、完成前に亡くなり、その後、持統天皇がその政策を引き継ぎ、694年に藤原京へ遷都された。

701年、刑部親王藤原不比等らにより大宝律令が完成した。

中央行政組織には、神祇官太政官があり、太政官の下で八省が政務を分担した。運営は有力諸氏から任命された太政大臣左大臣、右大臣、大納言らの公卿の合議によって行われた。

地方組織としては畿内と七道に行政区分され、国、郡、里(郷)が置かれた。国司には中央の貴族が派遣され、国府(国衙)で国内を統治した。郡司は伝統的な地方豪族が任命され郷家を拠点とした。

京には左・右京職、難波には摂津職、九州に大宰府が置かれた。

各官庁には官吏が勤務した。官吏は位階を与えられ、位階に応じた官職が与えられた。