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奈良時代の政治

平城京の時代

710年、元明天皇藤原京から平城京に遷都。朱雀大路で左京と右京に分かれ、中央北部に平城宮が位置した。平城宮には内裏、大極殿、朝堂院、二官と八省が置かれた。

左京、右京には官営の市が開かれ、市司が監督した。市では地方からの産物や布や糸が交換された。708年には和同開珎が鋳造され、銭貨は京都造営費用の支払いに使われた。政府は流通を目指したが京、畿内の外では物品による交易が広く行われた。

都を中心に官道(駅路)が整備され、地方では駅路から離れて郷家を結ぶ伝路が作られた。

国府では政務、儀礼を行う政庁(国衙)、役所群、倉庫群などが設けられ、一国内の政治、経済の中心になった。

国家体制が出来上がり、力をもった政府は支配領域拡大を目指し蝦夷討伐を行った。7世紀半ばの朝鮮半島などの対外緊張に対応して日本海側に柵が設けられた。8世紀になって軍事的制圧が始められた。日本海側には出羽国に秋田城、太平洋側には陸奥国多賀城が築かれ、蝦夷対策の拠点となった。

藤原氏の進出

藤原不比等らにより律令制が確立される中、旧来の有力諸氏の勢力は後退した。不比等は娘を文武天皇に嫁がせ、その子の皇太子(聖武天皇)にも娘の光明子を嫁がせた。不比等の死後、皇族の長屋王が右大臣となり政権を握ったが、藤原氏外戚としての地位が危うくなると不比等の子の4兄弟は策謀により長屋王を自殺に追いやり、光明子を皇后に立てることに成功する。(長屋王の変 729年)

その後、4兄弟は天然痘で相次いで亡くなると、藤原氏の勢力は後退、代わりに皇族出身の橘諸兄が政権を握る。また、唐から帰国した吉備真備や玄昉が聖武天皇に信任され活躍する。

740年、藤原冬嗣吉備真備と玄昉の排除を求めて反乱を起こすが鎮圧される。その後、聖武天皇は都を転々とする。

聖武天皇の娘の孝謙天皇の時に、藤原仲麻呂光明皇后と結んで政界で勢力を伸ばす。橘諸兄の子の奈良麻呂仲麻呂を滅ぼそうとするが逆に滅ぼされてしまう。その後、淳仁天皇を擁立。恵美押勝の名を賜り、破格の経済特権を得て、太政大臣まで昇進する。

光明皇后が死去すると、恵美押勝は孤立し、孝謙太上天皇道鏡を寵愛し淳仁天皇と対立すると764年に挙兵するが、太上天皇側に先制され滅ぼされた。後に、淳仁天皇は淡路に流され孝謙太上天皇称徳天皇に即位。

道鏡称徳天皇の支持を受け、法王となって仏教政治を行った。769年には称徳天皇道鏡皇位を譲ろうとするが、和気清麻呂に阻まれる。

称徳天皇の死後、道鏡は後ろ盾を失い失脚。藤原式家藤原百川らにより、天武天皇系の皇統に代わり天智天皇の孫の光仁天皇が即位する。

奈良時代の土地支配

8世紀には平地式の掘立柱住居が西日本に普及。夫婦も父母いずれかの下で生活し家を持った。女性は自分の財産を持った。律令制では父系の相続を重視したが、一般民衆の間では女性の発言力が強くあった。

農民は班給された口分田の他に乗田や寺社、貴族の土地を借りて耕作した。原則として1年おあいだ土地を借り、収穫の5分の1を政府や持ち主に収めた。

722年、口分田の不足を補い、税の増収を図るため百万町歩の開墾計画を立てた。723年には三世一身法を施行した。

743年には墾田永年私財法を発した。

これにより政府の掌握する土地は増えたが、貴族、大寺院、地方豪族の私有地拡大が進んだ。その一方で浮浪する農民が増えた。

律令制の確立により国家意識が高まり、国史の編纂が進んだ。

奈良時代古事記日本書紀が完成した。

712年に完成した古事記は宮廷に伝わる帝紀旧辞をもとに天武天皇稗田阿礼に習った内容を大安万呂が記録したもので、神話、伝承から推古天皇までの物語。

720年に完成の日本書紀舎人親王が中心となって編纂した。中国の歴史書の体裁に倣っている。

713年には地誌である風土記が編纂された。

また、貴族や官人には漢詩文の知識が必要とされた。そのため、751年には現存最古の漢詩集の懐風藻が編まれた。

教育機関としては官吏育成のために中央には大学、地方には国学が置かれた。