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法制の変化と社会

中国は秦の時代から刑法にあたる律が編纂されているのに対して、日本では7世紀末から天武、持統朝に飛鳥浄御原令が編纂され、行政法としての令が優先された。ヤマト政権以来の氏族制的な原理が在地社会で生き続けていた当時としては、統治技術の先取りが優先された。

大宝律令の完成から100年経って、社会の変化が特に著しく数多くの法令が発布された

ため、政務の運営上それらを整理する必要があり、それにより弘仁、貞観、延喜の三代格式が編纂された。格式が編纂された後からは、朝廷の出す法令は新制と呼ばれた。その多くは朝廷内での規律や服飾の統制を目的としていた。

しかし、保元の乱後の保元の新制はこれまでになく大規模なもので、王権による日本国の支配を宣言し、これに沿った荘園管理と悪僧や神人の乱暴を取り締まり、記録所による裁判の振興、京都の整備、内裏の再興などの天皇の支配権のもとの新たな法制が模索された。律令による整然とした国家システムが機能しなくなった段階にあって、荘園を基盤とする権門、所領を開発して武威を発揮する武士、神仏の加護を求めて活動する神人や僧を天皇の下に統合して配置する制度の整備が進められた。