平安中期の政治

藤原家の進出

9世紀初めに桓武天皇(781-806)、嵯峨天皇(809-823)が貴族たちを抑え強い権力を握ったが、この間に藤原氏の特に北家が天皇家と結びつきを強め、勢力を伸ばした。北家の藤原冬嗣嵯峨天皇の信任を得て蔵人頭になり、その子の藤原良房が842年の承和の変藤原氏の中での北家の優位を確立させた。

858年に幼少の清和天皇が即位すると、良房は摂政を務め866年の応天門の変では伴、紀両氏を没落させた。

良房の後を継いだ基経に支持され即位した光孝天皇(884-887)は、884年に基経を初めて関白にした。その後、宇多天皇(887-897)の即位の際の勅書に抗議し、これを撤回させた。(888年 阿衡の紛議)

基経の死後、宇多天皇は摂政、関白を立てず、菅原道真を重用したが、醍醐天皇(897-930)の時に藤原氏は策謀で道真を政界から追放した。

10世紀初めの醍醐、村上天皇(946-967)の時代は延喜、天暦の治と言われ、親政が行われた。その親政の間も藤原忠平が摂政、関白を務め、太上官を統率し実権を握った。

村上天皇の死後、左大臣源高明が左遷され藤原氏北家の勢力が不動のものとなった。その後は忠平の子孫が摂政、関白の地位に就くことになった。

摂関家の中では地位を巡って争いが続いたが藤原道真の頃(-1027)に落ち着き娘を中宮や太子妃として30年にわたって朝廷で権力をふるった。後一条、後朱雀、後冷泉天皇は道真の外孫であった。道真の後、頼道(-1074)が天皇三代の50年にわたって摂政、関白を務めた。

国際関係

唐は8世紀の内乱で衰退し、894年の道真の中止の建議により遣唐使は廃止された。907年には唐は滅び、五代の王朝の後960年に宋(-1127)によって再統一された。日本は宋とは正式な国交を開こうとはしなかったが、九州から宋の商人を通じて書籍、陶磁器などが輸入され、宋に渡る僧もいた。中国東北部では奈良時代以来親交のあった渤海が遼に滅ぼされ、朝鮮半島でも高麗がおこり新羅を滅ぼして半島を統一した。