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平氏政権

平治の乱後、清盛は後白河上皇を武力で支えて昇進し、蓮華王院の造営などの奉仕を通して1167年に太政大臣となった。その子の重盛らも高位について勢威をほこった。清盛は各地の武士を荘園や公領の現地支配者である地頭に任命し、畿内から瀬戸内海をへて九州までの地域の武士を家人とすることに成功した。

一方で娘の徳子を高倉天皇の中宮に入れその子の安徳天皇が即位すると外戚となった。

平氏は忠盛以来、日宋貿易に力を入れ、11世紀後半以降には日本と高麗、宋んおあいだで商船が活発に往来した。12世紀には宋が北方の金に圧迫され南宋になると、さらにさかんに通商が行われた。これに応じて清盛は摂津の大輪田泊を修築し、瀬戸内海航路の安全をはかり、宋商人の畿内への招来にも努めた。

清盛の積極的な対外政策の結果、宋船のもたらした多くの珍宝、宋銭、書籍は文化や経済に多くの影響を与えた。また、貿易の利潤は平氏政権の重要な経済的基盤となった。

平氏が官職の独占を進めたため、旧勢力の強い反感を受けた。特に、後白河法皇の近臣との対立は深まり、1177年には藤原成親、俊寛らが京都郊外の鹿ヶ谷で平氏打倒をかかげ失敗する事件も置田。そこで、清盛は1179年に後白河法皇を鳥羽殿に幽閉し、関白以下の多数の貴族の官職を奪うという強圧的手段で国家機構を手中に収めた。この権力の独占は、院や貴族、寺社、源氏などの反対勢力の結集を促した。

1180年に安徳天皇が即位すると、地方の武士団や中央の貴族、大寺院の中には平氏の専制政治に対する不満が起こり、その情勢をみた後白河法皇の皇子の以仁王畿内に地盤を持つ源氏の源頼政平氏打倒に兵をあげる令旨を諸国の武士に伝えた。これに応じて僧兵が立ち上がり、伊豆に流されていた源頼朝信濃の木曾谷にいた源義仲をはじめとする各

地の武士団が挙兵し、5年にわたる内乱が全国的に広がった。(治承、寿永の乱)

平氏福原京に遷都するがすぐに京都に戻し、畿内を中心とする支配を固めて内乱に対応しようとしたが、清盛の死、畿内、西国を中心とする養和の飢饉などで弱体化した。1183年に北陸で義仲に敗北すると安徳天皇を奉じて平氏は西国に都落ちした。やがて、頼朝の命令で義仲を範頼、義経が滅ぼし、1185年に壇ノ浦で平氏は滅亡した。