室町時代(初期)

室町幕府

南北朝の動乱も三代将軍義満の時代には落ち着きをみせ、1392年に南朝側と交渉し南北朝の合体が実現した。南朝側の後亀山天皇皇位を放棄し天皇後小松天皇の一人となった。

義満は商工業の中心地の京都での市政権、諸国への段銭徴収権などの権限を朝廷から幕府の管轄下に置き統一政権を確立させた。1378年に京都の室町に邸宅を建て義満はそこで政治をおこなった。やがて、将軍を辞して太政大臣に上り、出家後も実権をふるった。

義満は動乱のなかで強大化した守護の統制を図り、90年から99年にかけて土岐氏、山名氏、大内氏などの外様の有力守護を攻め滅ぼした。

幕府の機構も整備され、管領は将軍の補佐を行う中心的な職で侍所、政所などの中央諸機関を統轄し、諸国の守護に将軍の命令を伝達した。管領には足利一門の細川、斯波、山名、京極の4氏(四職)から任命され、有力守護は在京して重要政務を決定して幕政を運営した。一般の守護も領国は守護代に統治させ、自身は在京して幕府に出仕することが原則となった。

幕府は将軍権力を支えるための軍事力の育成に努め、古くからの足利家の家臣、守護の一族、有力な地方武士を集めて奉公衆と呼ばれる幕府の直轄軍を編成した。奉公衆はふだんは京都で将軍の護衛にあたり、諸国に散在する幕府の直轄領である御料所の管理もゆだねられ、守護の動向を牽制する役割を担った。

幕府の財政は御料所からの収入、守護の分担金、地頭、御家人への賦課金などでまかなわれた。また、京都の高利貸しを営む土倉や酒屋に土倉役、酒屋役を課し、交通の要所に関所を設けて関銭、津料を徴収した。幕府の保護下で金融活動を行っていた僧侶にも課税した。また、日明貿易の利益も幕府の財源となっていた。内裏の造営などの国家行事では守護から段銭や棟別銭を賦課することもあった。

地方機関としては鎌倉府や九州探題があった。尊氏は関東を重視し、その子の基氏に鎌倉公方として鎌倉府を開かせた。以後、鎌倉公方は基氏の子孫が世襲し、補佐の関東管領は上杉氏が世襲した。鎌倉府は関東8か国と伊豆、甲斐、のちには陸奥、出羽を支配し、京都の幕府と同等の権限を持つようになりしばしば衝突するようになった。

 

 

東アジアとの交易

 14世紀後半から15世紀にかけて、対馬壱岐肥前松浦地方の住民を中心とする海賊集団が朝鮮半島や中国大陸沿岸を襲い倭寇と恐れられていた。倭寇朝鮮半島沿岸の人々を捕虜にしたり食料を奪うなどした。

倭寇に悩まされた高麗は日本に使者を送って倭寇の禁止を求めたが内乱のさなかで成功しなかった。

中国では1368年に元の支配を排して漢民族の王朝の明を建国した。明は中国を中心とする伝統的な国際秩序の回復に努め、近隣の諸国に通交を求めた。

蒙古襲来後も元と日本の間で正式な外交関係はなかったが、義満は1401年に明に使者を派遣して国交を開いた。しかし、明を中心とする国際秩序のもとに行われた日明貿易は、国王が明の皇帝へ朝貢しその返礼として品物を受け取る朝貢貿易の形式を取らなければならなかった。また、遣明船は明から交付される勘合と呼ばれる証票を持参することが義務付けられた。

日明貿易は四代将軍義持が朝貢形式の貿易に反対し一時中断されたが、六代将軍義政の時に再開された。朝貢形式の貿易は滞在費、運搬費などはすべて明が負担したため、日本の利益は大きかった。また、大量にもたらされた銅銭は日本の貨幣流通に大きな影響を与ええた。

15世紀後半には幕府の衰退とともに貿易の実権はしだいに堺商人と結んだ細川氏や博多商人と結んだ大内氏の手に移っていった。細川氏と大内氏は激しく争い、1523年には寧波で衝突が起こり、この戦いに勝った大内氏が貿易を独占したが16世紀半ばに大内氏は滅亡し勘合貿易も断絶した。これとともに倭寇の活動が再び活発となり豊臣秀吉が海賊取締令を出すまでその活動は続いた。

朝鮮半島では1392年に倭寇を撃退して名声を立てた李成桂高麗を倒し朝鮮を建てた。朝鮮も通交と倭寇の禁止を日本に求め義満もこれに応じて国交が開かれた。日朝貿易は幕府だけでなく守護、国人、商人なども参加して盛んに行われたため、朝鮮側は対馬の宗氏を通して通交についての制度を定め貿易を統制した。

宗氏の当主の交代で倭寇が活発になると1419年に朝鮮軍は倭寇の本拠地と考えていた対馬を襲撃する応永の外寇によって、日朝貿易は一時中断したが、16世紀まで活発に行われた。朝鮮からの主な輸入品は織物類で、特に木綿は大量に輸入され衣料などの生活様式に影響を与えた。

しかし、朝鮮の三浦に住む日本人が暴動を起こし鎮圧された三浦の乱(1501年)以来、次第に貿易は衰えていった。

沖縄では北山、中山、南山の3地方勢力が成立し争っていたが、1429年に中山王の尚巴志が三山を統一し琉球王国をつくった。琉球は明や日本と国交を結び海外貿易を盛んに行った。琉球船は南方のジャワ島、スマトラ島インドネシア島などまでに行動範囲を広げ、東南アジア諸国間の中継貿易に活躍した。そのため、王国の都の首里の外港である那覇は重要な国際港となり、琉球は繁栄した。

14世紀には畿内津軽の十三湊とを結ぶ日本海交易も盛んに行われ、サケ、コンブなどの北海の産物が多く京都にもたらされた。やがて、蝦夷が島と呼ばれた北海道の南部に本州から人が移り、各地の海岸に居住地をつくった。彼らは和人と呼ばれ、津軽の豪族安藤氏の支配下に入り勢力を拡大した。

古くから北海道に住み、漁労や狩猟を生業とするアイヌは和人と交易を行った。和人の進出は次第にアイヌを圧迫し、1457年には大首長コシャマインを中心に蜂起し一時和人の居住地のほとんどを攻め落としたが、まもなく上ノ国の領主蠣崎氏に鎮められた。その後も蠣崎氏は道南地域の和人居住地の支配者に成長し、江戸時代には松前氏と名乗って蝦夷地を支配した。