戦国大名の登場

応仁の乱に始まる戦乱の混乱のなかでそれぞれの地域に根をおろした実力のある支配者が台頭してきた。16世紀前半、近畿地方ではなおも室町幕府の主導権を巡って細川氏の内部の権力争いが続いていたが、他の地方では自らの力で領国を作り上げ独自の支配を行う地方権力が誕生した。

関東では享徳の乱以後、鎌倉公方が持氏の子の成氏の古河公方と義政の兄弟の政和の堀越公方に分裂し、関東管領上杉氏も山内と扇谷の両上杉家に分かれ争っていた。この混乱に乗じて15世紀末に京都から下ってきた北条早雲堀越公方を滅ぼし伊豆を奪うと相模に進出して小田原を本拠地とすると、その子の氏綱、孫の氏康の時には北条氏は関東の大半を支配する大名となった。

中部地方では16世紀半ばまでに越後の守護上杉氏の守護代であった長尾氏に景虎が出て関東管領上杉氏を継いで上杉謙信と名乗り、甲斐から信濃に領国を拡張してきた武田信玄と川名島でしばしば戦った。

中国地方では守護大名として権勢を誇っていた大内氏が16世紀半ばに重臣の陶晴賢に国を奪われ、さらに安芸の国人から起こった毛利元就がこれに代わり、山陰地方の尼子氏と激しく戦闘を繰り返した。

戦国大名の中には守護代や国人から身を起こしたものが少なくなく、戦国時代には守護職のような古い権威は通用しなくなり、戦国大名として権力を維持するためには激しい戦乱で領主支配が危機に晒された家臣や生活を脅かされた領国民の支持が必要であった。そこで、戦国大名には新しい軍事指導者、領国支配者としての実力が求められた。

戦国大名は新しく服属させた国人たちとともに各地で成長の著しかった地侍を家臣に組み入れ、これらの国人や地侍らの収入額を銭に換算して貫高という基準で統一的に把握し、その地位と収入を保障する代わりに彼らの貫高に見合った一定の軍役を負担させた。

大名は家臣団に組み入れられ多数の地侍を有力家臣に預ける形で組織化し、これにより鉄砲や長槍などの新しい武器を使った集団戦法が可能になった。

戦国大名は家臣団統制や領国支配のための政策を打ち出し、なかには領国支配のための基本法である分国法を制定するところもあったが、これらの法典の中には幕府法、守護法を継承しながら国人一揆の規約を吸収した法もあり中世法の集大成的な性格があった。また、喧嘩両成敗法などの戦国大名の新しい権力としての性格を持った法も作られた。

また、征服した新たな土地の検地を多く行い、農民の耕作する土地面積と年貢量などを検地帳に登録させ大名の農民に対する直接支配が強化された。検地には家臣の領主にその支配地の面積、収入額を自己申告させるものと、名主に耕作地の面積、収入額を自己申告させるものがあった。

朝鮮や明からの輸入品で木綿は兵衣や鉄砲の火縄に使用され需要が高まり、三河などの各地で木綿栽培が急速に普及した。そして、武器などの大量の物資の生産や調達のために戦国大名は有力な商工業者を取り立てて、領国内の商工業者を統制し鉱山の開発や大河川の治水、灌漑などの事業を行った。鉱山開発は精錬技術、採掘技術の革新をもたらし、特に金銀の生産を飛躍的に高めた。

城下町を中心として領国を一まとまりの経済圏とするために、領国内の宿駅や伝馬の交通制度が整えられ、関所の廃止や市場の開発などの商業取引の円滑化が進められた。城下には家臣の主な者が集められ、商工業者も集住して次第に政治、経済、文化の中心としての城下町が形成された。

また、農村手工業や商品経済の発達により農村の市場や町が飛躍的に増加した。大寺社以外の地方の中小寺院の門前町も繁栄した。特に浄土真宗の勢力の強い地域ではその寺院や道場を中心に寺内町が各地に建設されそこに門徒の商工業者たちが集住した。

これらの市場や町は自由な商業取引を原則とし、販売座席(市座)や市場税などを設けない楽市として存在するものが多かった。戦国大名は楽市令などを出してこれらの楽市を保護し商品流通を盛んにさせ、自ら楽市を新設したりした。

遠隔地商業も盛んになり、港町や宿場町が繁栄した。これらの都市の中には富裕な商工業者たちが自治組織をつくり市政を運営したり、平和で自由な都市を作り上げるものもあった。日明貿易の根拠地としての堺や博多、摂津の平野、伊勢の桑名や大湊などがあり、特に堺は36人の会合衆、博多は12人の年行事と呼ばれる豪商の合議によって市政が運営され、自由都市としての性格をもっていた。

京都のような古い政治都市にも富裕な商工業者である町衆を中心とした都市民の自治的団体である町が生まれ、惣村と同じようにそれぞれ独自の町法を定め住民の営業活動を守った。さらに、町が集まって町組という組織が作られ、町や町組は町衆のなかから選ばれた月行事の手によって自治的に運営された。