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法制の変化と社会(中世)

鎌倉幕府の成立に対応して朝廷は新たな対応に迫られた。それが建久の新制で、諸国の行政上での義務を明確にし荘園管理と国内の悪僧、神人の乱暴の取締はそのままに、鎌倉幕府武家として捉え諸国の守護権を委任した。朝廷内部の規律も定め、京都の支配制度を検非違使を中心に整えた。建久の新制はその後の公家社会の基本となった。

一方で鎌倉幕府も新たな法制を模索した。武士たちは自らを育んできた慣習や道徳を重んじたが、紛争を処理する規範としての道理と呼ばれた慣習や道徳には地域的差異があり、相互矛盾することもあった。そのため、武士の土地支配が進展するにつれ所領紛争が全国各地で頻発した。鎌倉幕府は成文法の定立を求められ、そこで武家政権の根本法典としての武家諸法度が作られ室町幕府を経て江戸幕府武家諸法度にまで影響を与えた。

戦国時代になると戦国大名のなかには戦いを勝ち抜き、領国経営を安定させるために分国法を定めるものも現れた。なかでも喧嘩両成敗法は慣習的に認められていた紛争可決手段としての私闘を禁止し、すべての紛争を大名の裁判に委ねさせることで領国の平和を実現しようとするものであった。

この姿勢は豊臣秀吉の惣無事令にも引き継がれ、これによって大名から百姓にいたる全ての階層での合戦、私闘が禁止され近世的な支配原理の一つを生み出した。