世界の中での日本

日本の歴史は大きな節目や時代の変わり目ごとに常に諸外国からの強い圧力に対応しつつ自ら道を切り開いてきたという特色がある。大化の改新律令国家の形成、開国や明治維新をきっかけとする近代国家も成立などはいずれもその例である。

1127年の南宋の成立からほぼ30年後に日本では平氏政権が成立し、日宋貿易が活発になった。南宋では日本からもたらされる螺鈿や蒔絵、華麗な大和絵の描かれた扇や屏風が珍重され、火起こしの材料となる硫黄は必需品であった。日本に輸出される青磁、漢籍、香料の対価として入ってくる大量の日本の砂金は驚きを持って受け入れられた。一方で、南宋から日本にもたらされた宋銭は日本の貨幣経済を発展させた。すでに中世から日本は正式ではないにせよ宋を中心とする東アジア通商圏に組み入れられていた。

フビライモンゴル帝国を中国風の元と改称し中国南部の南宋を攻撃しようとした際に、南宋の東方海上にあて貿易を通じて南宋と結びついていた日本の存在がフビライの前には大きく浮かび上がっていた。そのため、南宋攻撃の戦略の一環として日本に元への朝貢や通商を要求し、日本を南宋から切り離そうとする政策が実行された。

蒙古以来も元との政治的軍事的緊張は続いたが、経済関係は一層深まった。元に続く明を中心とする国際秩序の再構築の呼びかけに足利義満が応えた背景には経済関係の深まりが背景にあった。

1543年のポルトガル人の種子島漂着を契機に始まった南蛮貿易も東アジア通商圏なしには成立しない。ポルトガル船はヨーロッパ産の鉄砲、火薬、毛織物、東南アジア産の香料、染料、中国産の生糸、絹織物などを日本にもたらし、この頃に日本で産出が急増していた銀を中国に運んだ。しかし、南蛮貿易の基本はポルトガル船による日本産の銀と中国産の生糸、絹織物を交換、売買するのが主体であり、それにヨーロッパ産、東南アジア産の貿易品が加わった中継貿易であった。

ユーラシア大陸を東西にまたぐ大経済圏を指向したモンゴルの大帝国は、そのなかに東アジア通商圏を包摂させた役割を担っていたと言える。

1604年の糸割符制度は糸割符仲間に一括購入する権利を与え、ポルトガル商人による中国産の生糸輸入の独占を打破しようとするものであった。一方で、江戸幕府朱印船貿易を積極的に推奨し、日本産の銀、銅、硫黄などを輸出し中国産の生糸、絹織物や南洋産の皮類、香料、薬種、砂糖を輸入した。朱印船はオランダ船、明船をしのぎ、ポルトガル船に匹敵するほど盛んな時期もあった。しかし、200年あまり外交制限状態を経て、日本の目の前の現れたのは産業革命を達成し地球全体に通商圏を包摂することを目指す強大な列強諸国であった。