平安後期の政治

院政の開始

頼道に子が出来なかったため、摂政、関白を外戚としない後三条天皇が即位し、大江匡房らなどの学識に優れた人材を登用し国政の改革に取り組んだ。特に、天皇は荘園の増加が公領を圧迫しているとして1069年に延久の荘園整理令を出した。これにより中央に記録荘園券契所が設けられ、荘園の所有者からの証拠書類と国司の報告とを合わせて審査し、年代の新しい荘園や書類不備などの基準に合わない荘園を停止した。

これにより貴族、寺社の支配する荘園と国衙領が明確化され、国司の支配下の公領がまだ多くを占めていた。そこで、豪族や開発領主に対して国司は国内を郡、郷、保などの新しい単位に再編成し単位ごとに徴税を請け負わせた。また、国衙では田所、税所などの行政機構が整備され、国司が代官として派遣した目代に従って在庁官人が実務を行うようになった。

在庁官人らは公領を共同の領地のように管理したり、荘園領主に寄進したりしたため、荘、郡、郷が並立する荘園と公領で構成される荘園公領制に変化していった。

整備された荘園や公領では、耕地の大部分は名とされ、有力農民に割り当てられた。彼らは名主と呼ばれ、名主は名の一部を下人などの隷属農民に、ほかの一部を作人と呼ばれる農民に耕作させながら年貢、公事、夫役などを領主に収めた。

白河天皇(1072-1086)は後三条天皇に倣って親政を行い、1086年に幼少の堀川天皇(1086-1107)に譲位し、上皇として院庁を開いた。上皇は荘園整理の断行を歓迎する国司たちを支持勢力に取り込み、御所の北面に武士を組織し、源平の武士を側近にするなどして権力を強化し、堀川天皇の死後には本格的な院政を開始した。

院政は次第に、法や慣例にこだわらず上皇が実権を専制的に行使する形となり、白河(1086-1129)、鳥羽(1129-56)、後白河上皇(1158-79,81-92)と100年近くにわたって続いた。院庁から下された文書は院庁下文上皇の命令を伝える院宣が国政一般に次第に効力を持つようになった。

上皇のまわりには富裕な受領や后妃、乳母の一族など院近臣とよばれる一団が集まり、上皇の力を借りて収益の豊かな国の国司などの官職に任命された。

この頃には知行国の制度や院分国の制度が広まり、公領は院や知行国主、国司の私領のようになり院政を支える経済基盤となった。もう一つの経済基盤としては大量の寄進地系荘園があった。

特に鳥羽上皇の時代には院のまわりに荘園の寄進が集中しただけでなく、有力貴族や大寺院への荘園の寄進も増加した。

不輸、不入の権を持つ荘園も一般的となり不入の権の内容も警察権の排除にまで拡大され、荘園の独立性が高くなった。

大寺院も多くの荘園を所有し下級僧侶を僧兵として組織し、国司と争ったり朝廷に強訴したりした。神仏の威を恐れた貴族は圧力に抗えず、武士を用いて警護や鎮圧にあたらせたため、武士の中央政界への進出を招いた。

地方では武士が館を築き一族や地域との結びつきを強めた。なかでも奥羽地方では陸奥の平泉を拠点に藤原清衡の支配が強大となり、奥州藤原氏は清衡、基衡、秀衡の三代、100年にわたって繁栄を誇った。金や馬などの産物で京都文化を移入したり北方(北海道より北方)との交易で独自の文化を育てた。

荘園の発達

延喜、天暦の治と呼ばれる天皇親政の理想時代とされる10世紀初めには律令体制の崩壊が明確化した。902年には違法な土地所有を禁じたり(延喜の荘園整理令)、班田の励行が図られたが、戸籍、計帳の制度は崩れ、班田収授も実施不可能となった。その結果、祖調庸を基本とする国家財政の維持は難しくなった。

これを受け、政府は国司に一定額の税の納入を請け負わせ、そのかわりに国内の統治をゆだねた。

それまでは中央政府の監督のもとで国司が行政を行い、税の徴収、運搬、文書の作成などの実務は郡司が行っていた。これを大きく方針転換し、国司が重要な役割を担い、逆に郡司の役割は衰えた。任国に赴任する国司の最上席者は政府に対する徴税請負人の性格を強め、受領と呼ばれた。

この頃には、朝廷の儀式や寺社の造営などを請け負い、その代償として官職に任じてもらう成功、同様にして収入の多い官職に再任してもらう重任が行われるようになった。

こうしたなかで国司は成功や重任で任じられることが多くなった。受領以外の国司は実務から排除され、赴任しない遙任がさかんとなった。

受領は有力農民である田堵に一定期間に限って耕作を請け負わせ、官物と臨時雑役を課すようになった。課税の対象となる田地は名と呼ばれる徴税単位に分けられ、それぞれの名には負名という請負人の名前が付けられた。

やがて11世紀後半になると、受領は交替の時も任国に赴かなくなり、かわりに目代を国衙に派遣し、その国の有力者が世襲的に任じられる在庁官人を指揮して地方の統治を行った。

初期荘園は、貴族や寺社がみずから開墾した土地や買収した墾田からなり、付近の農民に経営を託していた。この初期荘園は律令国家の地方支配機構である国郡制に依存したため、10世紀までに衰退していった。

10世紀後半には国衙から臨時雑役を免除されて一定の領域を開発する者が増え、11世紀には開発領主と呼ばれ自分の開発地への支配権を強めた。開発領主の多くは在庁官人となって国衙の行政に進出したが、なかには所領を中央の権力者に寄進しその権力者を領主と仰ぐ者もあらわれた。

寄進を受けた荘園の領主は領家と呼ばれ、この荘園がさらに上級の貴族や有力な皇族に重ねて寄進されたとき上級の領主は本家と呼ばれた。開発領主は下司などの荘官となり、所領の私的支配をさらに強めた。

このような荘園のなかには、貴族や有力寺社の権威を背景に政府から官物や臨時雑役の免除(不輸)を承認してもらう荘園が増加し、次第に国司にその任期中に限り不輸が認められる荘園も生まれた。

荘園の開発が進むと不輸の範囲や対象をめぐる開発領主と国司の対立が激しくなり、荘園領主の権威を利用して検田使などの国司からの使者の立ち入りを認めない不入の特権を得る荘園が増えた。

9世紀末から10世紀にかけて地方豪族や有力農民は勢力を維持、拡大するために武装するようになった。その結果、各地で紛争が発生しその鎮圧のため政府から押領使、追捕使に任じられた中、下級貴族のなかにはそのまま在庁官人になって現地に残り、有力な武士となるものが現れた。彼らは家子などの一族や郎党などの従者を率いて互いに闘争を繰り返し、時には国司に反抗した。

やがて武士たちは連合体を形成し、とくに辺境の地方では任期終了後もそのまま任地に残った国司の子孫などを中心に大きな武士団が成長し始めた。なかでも東国では良馬を産したため機動力のある武士団の成長が著しかった。

939年には東国に早くから根をおろしていた桓武平氏平将門は一族と争いを繰り返すうちに国司とも対立し、反乱にまで発展した。将門は東国の大半を占領し新皇を名乗ったが同じ東国の武士の平貞盛藤原秀郷に討たれた。

同じころに伊予の国司であった藤原純友も瀬戸内海の海賊を率いて反乱を起こし、伊予の国府や大宰府を攻め落とした。しかし、やがて清和源氏の祖である源経基らに討たれた。

1019年に九州北部を襲った刀伊の来襲の際に九州の武士が撃退したことからも九州にも武士団が形成されていたことが推測される。

11世紀になると中央貴族出身の清和源氏桓武平氏は地方武士団を広く組織し武家を形成した。なかでも、摂津に土着した清和源氏源満仲とその子の頼光、頼信兄弟は摂関家に近づき保護を得て勢威を高めた。1028年に上総で平忠常の乱がおこると頼信は房総半島に広がっていた反乱を鎮圧し、源氏の東国進出のきっかけをつくった。

陸奥では豪族安倍氏の勢力が強大で国司と争っていた。頼信の子の頼義は陸奥守つぃて任地に下り、その子の義家とともに東国の武士を率いて安倍氏と争い、出羽の豪族の清原氏の助けを得て安倍氏を滅ぼした。(前九年合戦)その後、出羽と陸奥で大きな勢力を得た清原氏一族の内紛が起こると、義家が介入し藤原清衡を助けて内紛を平定した。(後三年合戦)この後、奥羽地方では清衡の子孫による支配が続いた。一方で、これらの戦いを通じて源氏は東国武士団との主従関係を築き、武家の棟梁としての地位を固めた。

平安中期の政治

藤原家の進出

9世紀初めに桓武天皇(781-806)、嵯峨天皇(809-823)が貴族たちを抑え強い権力を握ったが、この間に藤原氏の特に北家が天皇家と結びつきを強め、勢力を伸ばした。北家の藤原冬嗣嵯峨天皇の信任を得て蔵人頭になり、その子の藤原良房が842年の承和の変藤原氏の中での北家の優位を確立させた。

858年に幼少の清和天皇が即位すると、良房は摂政を務め866年の応天門の変では伴、紀両氏を没落させた。

良房の後を継いだ基経に支持され即位した光孝天皇(884-887)は、884年に基経を初めて関白にした。その後、宇多天皇(887-897)の即位の際の勅書に抗議し、これを撤回させた。(888年 阿衡の紛議)

基経の死後、宇多天皇は摂政、関白を立てず、菅原道真を重用したが、醍醐天皇(897-930)の時に藤原氏は策謀で道真を政界から追放した。

10世紀初めの醍醐、村上天皇(946-967)の時代は延喜、天暦の治と言われ、親政が行われた。その親政の間も藤原忠平が摂政、関白を務め、太上官を統率し実権を握った。

村上天皇の死後、左大臣源高明が左遷され藤原氏北家の勢力が不動のものとなった。その後は忠平の子孫が摂政、関白の地位に就くことになった。

摂関家の中では地位を巡って争いが続いたが藤原道真の頃(-1027)に落ち着き娘を中宮や太子妃として30年にわたって朝廷で権力をふるった。後一条、後朱雀、後冷泉天皇は道真の外孫であった。道真の後、頼道(-1074)が天皇三代の50年にわたって摂政、関白を務めた。

国際関係

唐は8世紀の内乱で衰退し、894年の道真の中止の建議により遣唐使は廃止された。907年には唐は滅び、五代の王朝の後960年に宋(-1127)によって再統一された。日本は宋とは正式な国交を開こうとはしなかったが、九州から宋の商人を通じて書籍、陶磁器などが輸入され、宋に渡る僧もいた。中国東北部では奈良時代以来親交のあった渤海が遼に滅ぼされ、朝鮮半島でも高麗がおこり新羅を滅ぼして半島を統一した。

法制の変化と社会

中国は秦の時代から刑法にあたる律が編纂されているのに対して、日本では7世紀末から天武、持統朝に飛鳥浄御原令が編纂され、行政法としての令が優先された。ヤマト政権以来の氏族制的な原理が在地社会で生き続けていた当時としては、統治技術の先取りが優先された。

大宝律令の完成から100年経って、社会の変化が特に著しく数多くの法令が発布された

ため、政務の運営上それらを整理する必要があり、それにより弘仁、貞観、延喜の三代格式が編纂された。格式が編纂された後からは、朝廷の出す法令は新制と呼ばれた。その多くは朝廷内での規律や服飾の統制を目的としていた。

しかし、保元の乱後の保元の新制はこれまでになく大規模なもので、王権による日本国の支配を宣言し、これに沿った荘園管理と悪僧や神人の乱暴を取り締まり、記録所による裁判の振興、京都の整備、内裏の再興などの天皇の支配権のもとの新たな法制が模索された。律令による整然とした国家システムが機能しなくなった段階にあって、荘園を基盤とする権門、所領を開発して武威を発揮する武士、神仏の加護を求めて活動する神人や僧を天皇の下に統合して配置する制度の整備が進められた。

平安初期の時代

平安宮廷の形成

光仁天皇(770-781)は道鏡の仏教政治による混乱から財政の再建を目指し、行財政の簡素化や公民の負担軽減などの政策を行った。その後、桓武天皇(781-806)が即位。

仏教政治の弊害を廃し天皇権力強化のため784年に平城京から長岡京に遷都した。しかし、結局794年に再度遷都し平安京を建てた。

東北の城柵には役所群、倉庫群が配置され行政的な性格を持った。城柵を中心とした蝦夷支配が浸透した。しかし、780年に蝦夷の豪族の伊治呰麻呂の乱が起き多賀城が落ちる。その後、30年以上に渡って東北では戦争が相次いだ。

789年、桓武天皇紀古佐美を征東大使として大軍を進めるが、族長の阿弓流為の活躍で政府軍が大敗。その後、坂上田村麻呂征夷大将軍に任命され、802年に胆沢城を築き、阿弓流為を帰順させ鎮守府を立てる。その後、東北の拠点が日本海側にも進出していった。

東北地方の戦争と平安京の造営の二大政策は国家財政や民衆の負担を増やし、805年には桓武天皇の裁定により二大事業を打ち切ることが決まった。

藤原緒嗣と菅原真道あ徳政論を繰り広げた。

平安初期の政治改革(桓武嵯峨天皇

地方政治の改革に力を入れ、増えていた定員外の国司や郡司を廃止し、令外官勘解由使を設けて国司の引き継ぎを厳しく審査した。

兵士の質が落ちたことを受けて、792年には東北や九州を除く軍団と兵士を廃止、かわりに郡司の子弟や有力農民の志願による少数精鋭の健児を採用した。

桓武天皇の改革は平城天皇(806-809)、嵯峨天皇(809-823)にも引き継がれ、嵯峨天皇810年に平城京に遷都しようとしたが、兄の平城太上天皇と対立。結局、嵯峨天皇が挙兵、太上天皇は出家し、藤原薬子は自殺、薬子の兄の仲成は射殺された。

この事件の後、天皇の命令を直ちに太政組織に伝えるため秘書官長として蔵人頭を設け、藤原冬嗣を任命した。

また、検非違使を設けて平安京の警察を行わせた。

嵯峨天皇のもとで法制の整備が進められ、律令の規定を補足、修正する格、施行細則の式を分類、編集し、弘仁格式が編纂された。その後、貞観格延喜格式が編纂された。(三代格式

律令制度の崩壊

8世紀後半から9世紀になると、農民間の貧富の差が拡大し貧窮農民は様々な方法で負担を逃れようとし、偽籍が増えた。手続きの煩雑さから班田も実施が困難になってきた。

桓武天皇は班田の期間を6年1班だったのを12年に1班に改め、雑徭の期間を年間60日から30日に減らした。しかし、効果を上げず9世紀には班田が30年、50年行われない地域も出てきた。

中央の国家財政の維持が困難になると、政府は国司、郡司たちの租税徴収にかかる不正や怠慢を取り締まった。また、823年には大宰府、879年には畿内に官田を設けて有力農民を利用した直営方式を採用した。

しかし、中央の官庁はそれぞれ財源となる諸司田を持ち、官人たちも墾田を集めて国家財政への依存を弱めていった。天皇も勅使田を持ち、皇族にも天皇から田が与えられた。天皇と親近な関係の少数の皇族や貴族は院宮王臣家と呼ばれ、国家財政を圧迫する存在となっていった。

奈良時代の政治

平城京の時代

710年、元明天皇藤原京から平城京に遷都。朱雀大路で左京と右京に分かれ、中央北部に平城宮が位置した。平城宮には内裏、大極殿、朝堂院、二官と八省が置かれた。

左京、右京には官営の市が開かれ、市司が監督した。市では地方からの産物や布や糸が交換された。708年には和同開珎が鋳造され、銭貨は京都造営費用の支払いに使われた。政府は流通を目指したが京、畿内の外では物品による交易が広く行われた。

都を中心に官道(駅路)が整備され、地方では駅路から離れて郷家を結ぶ伝路が作られた。

国府では政務、儀礼を行う政庁(国衙)、役所群、倉庫群などが設けられ、一国内の政治、経済の中心になった。

国家体制が出来上がり、力をもった政府は支配領域拡大を目指し蝦夷討伐を行った。7世紀半ばの朝鮮半島などの対外緊張に対応して日本海側に柵が設けられた。8世紀になって軍事的制圧が始められた。日本海側には出羽国に秋田城、太平洋側には陸奥国多賀城が築かれ、蝦夷対策の拠点となった。

藤原氏の進出

藤原不比等らにより律令制が確立される中、旧来の有力諸氏の勢力は後退した。不比等は娘を文武天皇に嫁がせ、その子の皇太子(聖武天皇)にも娘の光明子を嫁がせた。不比等の死後、皇族の長屋王が右大臣となり政権を握ったが、藤原氏外戚としての地位が危うくなると不比等の子の4兄弟は策謀により長屋王を自殺に追いやり、光明子を皇后に立てることに成功する。(長屋王の変 729年)

その後、4兄弟は天然痘で相次いで亡くなると、藤原氏の勢力は後退、代わりに皇族出身の橘諸兄が政権を握る。また、唐から帰国した吉備真備や玄昉が聖武天皇に信任され活躍する。

740年、藤原冬嗣吉備真備と玄昉の排除を求めて反乱を起こすが鎮圧される。その後、聖武天皇は都を転々とする。

聖武天皇の娘の孝謙天皇の時に、藤原仲麻呂光明皇后と結んで政界で勢力を伸ばす。橘諸兄の子の奈良麻呂仲麻呂を滅ぼそうとするが逆に滅ぼされてしまう。その後、淳仁天皇を擁立。恵美押勝の名を賜り、破格の経済特権を得て、太政大臣まで昇進する。

光明皇后が死去すると、恵美押勝は孤立し、孝謙太上天皇道鏡を寵愛し淳仁天皇と対立すると764年に挙兵するが、太上天皇側に先制され滅ぼされた。後に、淳仁天皇は淡路に流され孝謙太上天皇称徳天皇に即位。

道鏡称徳天皇の支持を受け、法王となって仏教政治を行った。769年には称徳天皇道鏡皇位を譲ろうとするが、和気清麻呂に阻まれる。

称徳天皇の死後、道鏡は後ろ盾を失い失脚。藤原式家藤原百川らにより、天武天皇系の皇統に代わり天智天皇の孫の光仁天皇が即位する。

奈良時代の土地支配

8世紀には平地式の掘立柱住居が西日本に普及。夫婦も父母いずれかの下で生活し家を持った。女性は自分の財産を持った。律令制では父系の相続を重視したが、一般民衆の間では女性の発言力が強くあった。

農民は班給された口分田の他に乗田や寺社、貴族の土地を借りて耕作した。原則として1年おあいだ土地を借り、収穫の5分の1を政府や持ち主に収めた。

722年、口分田の不足を補い、税の増収を図るため百万町歩の開墾計画を立てた。723年には三世一身法を施行した。

743年には墾田永年私財法を発した。

これにより政府の掌握する土地は増えたが、貴族、大寺院、地方豪族の私有地拡大が進んだ。その一方で浮浪する農民が増えた。

律令制の確立により国家意識が高まり、国史の編纂が進んだ。

奈良時代古事記日本書紀が完成した。

712年に完成した古事記は宮廷に伝わる帝紀旧辞をもとに天武天皇稗田阿礼に習った内容を大安万呂が記録したもので、神話、伝承から推古天皇までの物語。

720年に完成の日本書紀舎人親王が中心となって編纂した。中国の歴史書の体裁に倣っている。

713年には地誌である風土記が編纂された。

また、貴族や官人には漢詩文の知識が必要とされた。そのため、751年には現存最古の漢詩集の懐風藻が編まれた。

教育機関としては官吏育成のために中央には大学、地方には国学が置かれた。

律令制の確立

朝鮮半島新羅が唐と結んで660年に百済を、668年に高句麗を滅ぼした。都は難波から飛鳥に戻り、斉明天皇の下で百済復興のために大軍を送るが663年の白村江の戦いで唐・新羅の連合軍に大敗した。676年に新羅が半島の支配権を確立させると、日本の防衛政策が進められ、百済の亡命貴族を中心に大宰府に城が築かれた。また、対馬には朝鮮式山城が築かれた。

664年に氏上が定められ、豪族層が編成された。

667年、中大兄皇子は都を近江に移し、668年に天智天皇に即位。670年に庚午年籍を作成された。

672年、天智天皇皇位継承をめぐり壬申の乱がおこり、大海人皇子が東国の軍事動員に成功し、近江朝廷を倒した。673年に天武天皇に即位。都を飛鳥とし、近江朝廷側の有力豪族は没落し、天武天皇を中心とした中央集権的国家が形成されていった。このころから、大王から天王という称号が使われるようになる。

天武天皇は675年、豪族領民をやめ官僚制の形成を進めた。684年、八色の姓を定め豪族を天皇中心の身分秩序に編成した。

藤原京の造営を始めるが、完成前に亡くなり、その後、持統天皇がその政策を引き継ぎ、694年に藤原京へ遷都された。

701年、刑部親王藤原不比等らにより大宝律令が完成した。

中央行政組織には、神祇官太政官があり、太政官の下で八省が政務を分担した。運営は有力諸氏から任命された太政大臣左大臣、右大臣、大納言らの公卿の合議によって行われた。

地方組織としては畿内と七道に行政区分され、国、郡、里(郷)が置かれた。国司には中央の貴族が派遣され、国府(国衙)で国内を統治した。郡司は伝統的な地方豪族が任命され郷家を拠点とした。

京には左・右京職、難波には摂津職、九州に大宰府が置かれた。

各官庁には官吏が勤務した。官吏は位階を与えられ、位階に応じた官職が与えられた。

飛鳥の朝廷

6世紀の朝鮮半島

高句麗の圧力を受けた百済新羅が南下、伽耶諸国は562年までに百済新羅の支配下に入った。その結果、伽耶諸国と関係のあったヤマト政権の朝鮮半島での勢力は後退、政治を主導していた大伴氏は失脚した。この朝鮮半島での政策の違いを巡り、物部氏蘇我氏が対立すると蘇我馬子物部守屋で戦いとなり、587年に蘇我馬子物部守屋を滅ぼした。

蘇我馬子は、伴造に編成されていた渡来人と協力して財政権を握った。また、政治機構の整備、仏教の受容を進めた。

589年に中国で隋が成立。隋は高句麗に進出を始める。

592年、蘇我馬子崇峻天皇を暗殺、推古天皇が即位すると、聖徳太子らと協力して国家組織を形成した。

603年 官位一二階

604年 憲法一七条

氏族単位の政権組織を改めて、豪族を国家の官僚として編成し直し、仏教を新しい政治理念として重んじた。中国との外交を再開し607年に遣隋使を派遣した。中国に臣属しない対等な立場を主張し、皇帝から無礼とされた。

618年に隋が滅び、唐が成立すると遣唐使を派遣。中央集権国家の形成が課題となった。この頃から、飛鳥の地に多くの王宮がたてられ、王権の諸施設が整備されはじめた。

7世紀半ば、隋が高句麗に侵攻すると中央集権の確立と国内統一の必要に迫られ、643年に蘇我入鹿が山背大兄王子を滅ぼしたが、645年に中大兄皇子蘇我入鹿蝦夷を滅ぼした。王族中心の政権を目指し、王族出身の孝徳天皇が即位、中大兄皇子は皇太子、阿倍内麻呂蘇我倉山田石川麻呂は左、右大臣、中臣鎌足は内臣とする政権が成立。飛鳥から難波に移って政治改革を進めた。

646年の公地公民の制などの、全国的な人民、田地の調査、統一的な税制の施行が目指された。地方行政組織の評(こおり)が設置され、中央の管制が整備されていった。そのなかで中大兄皇子を中心に権力が集中していった。

大王候補だった古人大兄王や蘇我倉山田石川麻呂が滅ぼされた。