2016-03-20から1日間の記事一覧

世界の中での日本

日本の歴史は大きな節目や時代の変わり目ごとに常に諸外国からの強い圧力に対応しつつ自ら道を切り開いてきたという特色がある。大化の改新や律令国家の形成、開国や明治維新をきっかけとする近代国家も成立などはいずれもその例である。 1127年の南宋の成立…

法制の変化と社会(中世)

鎌倉幕府の成立に対応して朝廷は新たな対応に迫られた。それが建久の新制で、諸国の行政上での義務を明確にし荘園管理と国内の悪僧、神人の乱暴の取締はそのままに、鎌倉幕府を武家として捉え諸国の守護権を委任した。朝廷内部の規律も定め、京都の支配制度…

戦国大名の登場

応仁の乱に始まる戦乱の混乱のなかでそれぞれの地域に根をおろした実力のある支配者が台頭してきた。16世紀前半、近畿地方ではなおも室町幕府の主導権を巡って細川氏の内部の権力争いが続いていたが、他の地方では自らの力で領国を作り上げ独自の支配を行う…

新仏教の発展

天台、真言などの旧仏教は朝廷、幕府の没落や荘園の崩壊によって次第に勢力を衰えさせ、これに対して鎌倉仏教の各宗派は武士、農民、商工業者などの信頼を得て、都市や農村に広まった。 禅宗の五山派はその保護者であった幕府の衰退により衰えた。これに対し…

室町幕府の衰退

義満のあとを継いだ足利義持(1386-1428)の時代は将軍と有力守護の勢力が均衡を保たれ比較的安定していた。しかし、6代将軍足利義教(1394-1441)は将軍権力の強化を狙い専制的な政治を行った。1438年に関東に討伐軍を送り翌年に幕府に反抗的な鎌倉公方足…

室町時代(初期)

室町幕府 南北朝の動乱も三代将軍義満の時代には落ち着きをみせ、1392年に南朝側と交渉し南北朝の合体が実現した。南朝側の後亀山天皇は皇位を放棄し天皇は後小松天皇の一人となった。 義満は商工業の中心地の京都での市政権、諸国への段銭徴収権などの権限…

南北朝の動乱

後嵯峨上皇が亡くなると皇室は後深草上皇の流れをくむ持明院統と亀山天皇の流れをくむ大覚寺統に分かれ、皇位の継承や院政を行う権利、皇室領荘園の相続などを巡って争い、ともに幕府に働きかけて有利な立場を得ようとした。幕府はたびたび調停を行い、両統…

鎌倉後期の社会変動

蒙古襲来前後から農業の発展がみられ、畿内や西日本一帯では麦を裏作する二毛作が普及し、肥料には山野の草や木あ使われ、鉄製の農具や牛馬を利用した農耕も広がった。また、大唐米も輸入され、肥料には草を刈って田に敷きこむ刈敷や草木を焼いて灰にしたも…

蒙古襲来

鎌倉幕府では日宋間で正式な国交は行われなかった。しかし、平氏政権下での積極的な海外通交の後、私的な貿易や僧侶、商人の往来などが行われ日本は宋を中心とする東アジア通商圏に組み込まれた。 13世紀初め、モンゴル高原にチンギスハーンがモンゴル民族を…

武士の社会

このころまでの武士は開発領主の系譜を引き先祖以来の土地に住み着いて所領を拡大してきた。彼らは河川の近くの微高地を選んで館を構え、周囲には堀、溝、塀をめぐらした。武芸の練習場やあ防御施設であると同時に農業営業の中核でもあった。館の周辺部には…

鎌倉時代(中期)

承久の乱 京都の朝廷では幕府の成立と勢力の拡大に直面し、これまでの朝廷の政治の立て直しが行われ、その中心となったのが後鳥羽上皇であった。上皇は分散していた広大な皇室領の荘園を手中に収め、新たに西面の武士の軍事力の強化を図った。そのなかで1219…