平安初期の時代

平安宮廷の形成

光仁天皇(770-781)は道鏡の仏教政治による混乱から財政の再建を目指し、行財政の簡素化や公民の負担軽減などの政策を行った。その後、桓武天皇(781-806)が即位。

仏教政治の弊害を廃し天皇権力強化のため784年に平城京から長岡京に遷都した。しかし、結局794年に再度遷都し平安京を建てた。

東北の城柵には役所群、倉庫群が配置され行政的な性格を持った。城柵を中心とした蝦夷支配が浸透した。しかし、780年に蝦夷の豪族の伊治呰麻呂の乱が起き多賀城が落ちる。その後、30年以上に渡って東北では戦争が相次いだ。

789年、桓武天皇紀古佐美を征東大使として大軍を進めるが、族長の阿弓流為の活躍で政府軍が大敗。その後、坂上田村麻呂征夷大将軍に任命され、802年に胆沢城を築き、阿弓流為を帰順させ鎮守府を立てる。その後、東北の拠点が日本海側にも進出していった。

東北地方の戦争と平安京の造営の二大政策は国家財政や民衆の負担を増やし、805年には桓武天皇の裁定により二大事業を打ち切ることが決まった。

藤原緒嗣と菅原真道あ徳政論を繰り広げた。

平安初期の政治改革(桓武嵯峨天皇

地方政治の改革に力を入れ、増えていた定員外の国司や郡司を廃止し、令外官勘解由使を設けて国司の引き継ぎを厳しく審査した。

兵士の質が落ちたことを受けて、792年には東北や九州を除く軍団と兵士を廃止、かわりに郡司の子弟や有力農民の志願による少数精鋭の健児を採用した。

桓武天皇の改革は平城天皇(806-809)、嵯峨天皇(809-823)にも引き継がれ、嵯峨天皇810年に平城京に遷都しようとしたが、兄の平城太上天皇と対立。結局、嵯峨天皇が挙兵、太上天皇は出家し、藤原薬子は自殺、薬子の兄の仲成は射殺された。

この事件の後、天皇の命令を直ちに太政組織に伝えるため秘書官長として蔵人頭を設け、藤原冬嗣を任命した。

また、検非違使を設けて平安京の警察を行わせた。

嵯峨天皇のもとで法制の整備が進められ、律令の規定を補足、修正する格、施行細則の式を分類、編集し、弘仁格式が編纂された。その後、貞観格延喜格式が編纂された。(三代格式

律令制度の崩壊

8世紀後半から9世紀になると、農民間の貧富の差が拡大し貧窮農民は様々な方法で負担を逃れようとし、偽籍が増えた。手続きの煩雑さから班田も実施が困難になってきた。

桓武天皇は班田の期間を6年1班だったのを12年に1班に改め、雑徭の期間を年間60日から30日に減らした。しかし、効果を上げず9世紀には班田が30年、50年行われない地域も出てきた。

中央の国家財政の維持が困難になると、政府は国司、郡司たちの租税徴収にかかる不正や怠慢を取り締まった。また、823年には大宰府、879年には畿内に官田を設けて有力農民を利用した直営方式を採用した。

しかし、中央の官庁はそれぞれ財源となる諸司田を持ち、官人たちも墾田を集めて国家財政への依存を弱めていった。天皇も勅使田を持ち、皇族にも天皇から田が与えられた。天皇と親近な関係の少数の皇族や貴族は院宮王臣家と呼ばれ、国家財政を圧迫する存在となっていった。