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鎌倉幕府の成立

平氏の諸勢力のうち東国の武士団は武家の棟梁で源氏の嫡流である頼朝もとに集結し最も有力な勢力となった。頼朝は挙兵後まもなく、相模の鎌倉を根拠地として広く主従関係の確立に努め、関東の荘園、公領を支配して御家人の所領支配を保障した。1183年の平氏都落ち後、京都の後白河法皇と交渉して東海、東山両道の東国の支配権の承認を得た。1185年に平氏が滅亡すると、頼朝の強大化を恐れた法皇義経に頼朝追討を命じたが、頼朝は軍勢を京都に送り法皇に迫り、諸国に守護、荘園や公領に地頭を任命する権利や、兵粮米を徴収する権利、国衙の実験を握る在庁官人を支配する権利を獲得した。

その後、義経をかばったとして奥州藤原氏を滅ぼすと1190年には上洛が実現し右近衛大将、1192年には法皇の死後に征夷大将軍に任命された。

幕府の支配機構は簡素で実務的で、鎌倉には中央機関として御家人を統制する侍所、一般政務や財政事務を行う政所、裁判事務を行う問注所が置かれ、京都から招いた下級貴族を主とする側近たちが頼朝を補佐した。地方には守護と地頭が置かれた。

守護は原則として各国に一人ずつ、主に東国出身の有力御家人が任命され、大犯三か条などの職務に就き、国内の御家人を指揮し平時には治安の維持と警察権の行使、戦時には国内の武士を統率した。また、在庁官人を支配し、特に国衙の行政事務を引き継いで地方行政官としての役割も果たした。

地頭は御家人の中から任命され、年貢の徴収、納入と土地の管理、治安維持を行った。地頭は平氏政権の際にも一部で置かれたが、給与に一定の決まりがなく土地ごとの慣例に従っていた。これを頼朝はその職務を明確化し任命権を国司荘園領主から奪い、地頭を任命した。これにより、御家人の権利が保障されるようになったが、地頭の設置範囲は平家没官領を中心とする所領に限られた。

幕府支配の基本をなしたのは将軍と御家人の主従関係であった。頼朝は地頭を任命することで先祖伝来の所領の支配を保障したり(本領安堵)、新たな所領を与えたり(神恩給与)し、この御恩に対して御家人は戦時には軍役、平時には京都大番役や鎌倉番役を務めた。

東国は実質上幕府の支配地域で、その他の地方でも国衙の任務は守護を通じて幕府に吸収されていった。しかし、京都の朝廷や貴族、大寺社を中心とする荘園領主の力はまだ強く残っており、政治的にも経済的にも二面性をもっていた。

朝廷は国司を任命し、貴族や大寺社は国司荘園領主として土地からの収益の多くを握り、幕府に属さない武士も多くいた。

頼朝自身も朝廷から与えられた関東知行国や平家から没収した荘園などの大量の関東御領を所有し、幕府の経済的基盤となった。

幕府と朝廷の関係は新制と呼ばれる朝廷の法令や宣旨で定められており、ともに支配者としての共通面を持っていた。一面では朝廷の支配や荘園、公領の維持を助けた。しかし、多面では、幕府が東国以外の地域で支配の実権を握ろうとしたため、守護、地頭と国司荘園領主とのあいだで争いが多くなった。

優れた指導者である頼朝が死ぬと、若い頼家、実朝の時代になると、貴族出身の頼朝の側近と有力御家人あによる合議制で政治が行われた。それとともに、有力な御家人の間で政治の主導権をめぐって争いが続き、多くの御家人が滅んでいった。そのなかで勢力を伸ばしたのが伊豆の在庁官人出身の北条氏であった。

1203年、北条時政は頼家を廃し、実朝を立てて幕府の実権を握った。時政の地位は執権と呼ばれ、子の義時に継承されたが侍所の長官の和田義盛を滅ぼし、政所と侍所の別当を兼ねて地位を固めた。これ以後、執権は北条一族が世襲するようになった。