鎌倉時代(中期)

承久の乱

 京都の朝廷では幕府の成立と勢力の拡大に直面し、これまでの朝廷の政治の立て直しが行われ、その中心となったのが後鳥羽上皇であった。上皇は分散していた広大な皇室領の荘園を手中に収め、新たに西面の武士の軍事力の強化を図った。そのなかで1219年、実朝が頼家の遺児公卿に暗殺されると朝幕関係が不安定になった。1221年、後鳥羽上皇畿内、西国の武士や大寺院の僧兵、北条氏に反発する東国武士の一部を味方につけ、義時追討に兵をあげた。しかし、東国武士の大多数が北条氏のもとに集結し戦いに臨み、1か月ののち圧倒的勝利をおさめ3上皇を配流した。

 乱の後、幕府は皇位継承に介入するようになり、京都に新たに六波羅探題をおいて朝廷の監視、京都の警備、西国の統轄にあたらせた。また、上皇側についた貴族、武士の所領3000か所を没収し、戦功のあった御家人にその地の地頭に任命した。

 これにより、幕府の力が畿内、西国の荘園、公領にまで広く及ぶようになった。

 

執権政治

 承久の乱後、泰時のもと発展を迎えた。執権を補佐する連署を北条一族から有力者をあてて、有力な御家人や政務に優れた者を十一人選び評定衆とし、幕府の政務処理や裁判に当たらせ合議制で政治を行った。

 1232年には御成敗式目51か条を制定し、頼朝以来の先例や武士社会の慣習や道徳に基づいて守護や地頭の任務と権限を定めた。御家人同士や御家人と荘園領主との紛争を公平に裁く基準が定められた初めての武家の法典となった。

 朝廷の支配下の地域では律令の系統をひく公家法、荘園領主のもとでは本所法がそれぞれ効力を持っていたが、公平な裁判を重視する武家法の影響は次第に広がっていきその効力の範囲を広げていった。

 合議制の採用や式目の制定などの泰時の政策は、孫の時頼に受け継がれ、評定衆のもとに新たに引付をおき引付衆を任命した。引付は御家人たちの所領に関する訴訟を専門に担当させ、迅速で公平な裁判の確立に努めた。

 一方、幕府は前将軍の藤原頼経を京都に送り返し、その子の将軍藤原頼嗣の力を弱め、1247年には三浦一族を滅ぼし、北条氏の地位を不動のものとした。また、朝廷には政治の作新と制度の改革を求め、これを受けた後嵯峨上皇により評定衆がおかれ、朝廷の内部に幕府の力が及ぶようになった。やがて、藤原将軍にかわる皇族将軍むかえた。