室町幕府の衰退

義満のあとを継いだ足利義持(1386-1428)の時代は将軍と有力守護の勢力が均衡を保たれ比較的安定していた。しかし、6代将軍足利義教(1394-1441)は将軍権力の強化を狙い専制的な政治を行った。1438年に関東に討伐軍を送り翌年に幕府に反抗的な鎌倉公方足利持氏を滅ぼした。

義教はその後も有力守護を弾圧したため、1441年に有力守護の赤松満祐が義教を殺害した。同じ年に赤松氏は討伐されたが、これ以降将軍の権威は揺らいでいった。

将軍権力の弱体化により有力守護と将軍家の間で内紛が起こった。

畠山、斯波の管領家の家督争い、義政(8代将軍 1436-90)の弟の義視と義政の子をおす日野富子との家督争いが起こった。また、幕府の実権を握ろうと細川勝元山名持豊家督争いに介入し対立が激化した。そして、1467年に応仁の乱が発生した。

守護大名は細川方(東軍)と山名方(西軍)にわかれ京都で戦った。その結果、京都は荒廃した。応仁の乱は1477年に両軍の和議で終戦をむかえ守護大名も領国に下ったが、その後も地域的争いとして続けられ全国に広がっていった。

これにより有力守護が在京し幕政を支える幕府の仕組みは崩壊し、荘園制の解体も進んだ。

守護大名が京都で戦いを続ける一方で、その領国では在国して戦いを主導していた守護代や有力国人が力をつけ、領国支配の実権は次第に彼らに移っていった。また、地方の国人たちも自分たちの権益を守ろうと国人一揆を結成した。

1485年には南山城地方で畠山氏の軍を国外に退去させた山城国一揆は住民の支持を受け、8年に渡り一揆の自治支配を実現させた。

1488年の加賀の一向一揆本願寺蓮如の布教によって近畿、東海、北陸に広がった浄土真宗本願寺派の勢力を背景に、加賀の門徒が国人と結んで守護富樫政親を倒したものであった。一揆の実質的な支配が1世紀にわたって続けられた。

鎌倉後期には近畿地方やその周辺部では荘園や公領の内部に村が自然発生的に生まれ、南北朝の動乱の中でしだいに全国に広がっていった。農民が自立的、自治的な村を惣と呼ぶ。惣村は古くからある有力農民の名主層に加えて小農民も構成員とし、村の神社の祭礼、農業の共同作業、自衛などを通して村民の結合を強めていった。

惣村は寄合という村民の会議の決定に従い、おとな、沙汰人などと呼ばれる村の指導者によって運営された。また、村民が守るべき規約である惣掟を定め、村内の秩序維持のために村民自ら警察権を行使することもあった。

惣村は農業作業に必要な山や野原などの共同利用地を確保するとともに、灌漑用水の管理も行うようになった。また、領主へ収める年貢を惣村がひとまとめに請け負う地下請もしだいに広がった。

強い連帯意識で結ばれた惣村の農民は不法を働く荘官の免職や水害、干害の際の年貢の減免を求め一揆を結び、荘園領主のもとに団体で押しかけたり、全員が耕作を放棄し他領や山林に逃げ込んだりする実力行使を行った。また、惣村の有力者のなかには守護などと主従関係を結んで武士化するものも多く現れ(地侍)、荘園領主や地頭などの領主支配が次第に困難になった。

これらの惣村は時として荘園、郷の枠を超えて領主が異なる周辺の惣村と連合することもあり、このように連合した農民勢力が大きな勢力となって中央の政界に衝撃を与えたのが1428年の正長の徳政一揆であった。惣村の結合をもとにした土一揆は徳政要求をし、京都の土倉、酒屋を襲って質物や売買、貸借証文をうばった。

この頃には農村にも土倉などの高利貸し資本が浸透し、この徳政一揆はたちまち近畿地方やその周辺に広がり各地で実力による債務破棄、売却地の取り戻しが展開された。1429年の播磨の土一揆は守護赤松氏の家臣を国外へ追放するという政治的要求も掲げていた。

1441年に数万人の土一揆が京都を占拠し、幕府はついに土一揆の要求を受け入れて徳政令を発布した。(嘉吉の徳政一揆)中世の社会では支配者の交代によって所有関係や貸借関係などを改められるという社会観念が存在し、その後もしばしば土一揆は徳政のスローガンを掲げて各地で蜂起し幕府も徳政令を乱発した。それらの徳政令は債権額、債務額の10分の1や5分の1の手数料を幕府に納入することを条件に債権の保護や債務の破棄を認める分一徳政令も多かった。

 この時期の農業の特色は民衆の生活と結びついて土地の生産性を向上させる集約化、多角化がすすんだことにある。水車などの灌漑や排水施設の整備、改善され、畿内では二毛作に加え三毛作も行われた。また、稲の品種改良も進み早稲、中稲、晩稲の作付も普及した。

肥料にも刈敷、草木灰などとともに下肥が使われるようになり、地味の向上と収穫の安定化が進んだ。また、手工業の原料としての苧、桑、楮、漆、藍、茶などの栽培も盛んになった。農村加工業の発達によりこれらの商品が流通するようになった。

農業の発達により農民は豊かになり、物資の需要が高まり農村にも商品経済が浸透した。

この農民の需要に支えられ地方の産業が盛んになり特産品が生産されるようになった。

製塩のための塩田も自然浜の他に、堤で囲った砂浜に潮の干満を利用し海水を導入する古式入浜も作られるようになった。

農業や手工業の発達により地方の市場もその日数が増えていき月に6回開く六斎市が一般的となった。また、連雀商人や振売と呼ばれる行商人の数も増え、京都の大原女、桂女などの女性の活躍が目立った。

京都などの大都市では見世棚を構えた常設の小売店が一般的になり、京都の米場、淀の魚市などのように特定の商品のみを扱う市場も生まれた。

手工業や商人の座も種類も数も著しく増加し、なかには大寺社や天皇家から与えられた神人、供御人の称号を根拠に、関銭の免除や広範囲の独占的販売権を認められ全国的に活動する座もあった。蔵人所を本所とする灯炉供御人は関銭を免除され全国的な商売を展開した。また、大山崎の油神人は石清水八幡宮を本所とし、畿内、美濃、尾張、阿波などで油の販売と原料である荏胡麻購入の独占権を持っていた。しかし、15世紀以降では座に加わらない新興商人が出現し、地方には本所を持たない新しい性格の座(仲間)も増えていった。

商品経済が盛んになると貨幣の流通も著しく増え、農民の年貢、公事、夫役も貨幣で納入されることが多くなった。また、遠隔地取引の拡大とともに為替の利用に盛んに行われた。

貨幣は従来の宋銭とともに、新たに流入した明銭が使用されたが需要の増大とともに粗悪な私鋳銭も流通するようになり、取引にあたっては悪銭は嫌われ良質の貨幣を選ぶ撰銭が行われ、円滑な流通が阻害された。そのため、幕府、戦国大名は悪銭と良銭の混合比率を決め、一定の悪銭の流通を禁止する代わりにそれ以外の貨幣の流通を強制する撰銭令をしばしば発布した。

貨幣経済の発達は金融業者の活動を促し、酒屋などの富裕な商工業者は土倉と呼ばれる高利貸業を兼ねるものが多く、幕府はこれらの土倉、酒屋を保護、統制するとともに営業税を徴収した。

地方産業が盛んになると遠隔地取引も活発になり海、川、陸の交通路が発達し、廻船の往来も頻繁になり交通の要所には問屋が置かれ多くの地方都市が繁栄した。また、多量の物資が運ばれる京都への輸送路では馬借、車借と呼ばれる運送業者が活躍した。交通、運輸の増加に着目した幕府、寺社、公家などは水陸交通の要所に次々と関所を設け、関銭、津料を徴収し交通の大きな障害となった。